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読書:冒険の書 AI時代のアンラーニング 学校教育の常識が崩壊?AI時代に生き残る新しい学び方

学校教育をド派手にぶっ壊してきました。AI時代に突入した今、知識を詰め込むだけの教育や、嫌々ながらやる仕事って、本当に意味あるの?そんな疑問をこれでもかと突きつけてきます。


AI時代の学校教育の矛盾と不安を煽ってるのか?

AIの進化に伴い、従来の知識詰め込み型の学びや、仕方なく行う仕事はもはや通用しなくなっていきます。これでもかと、学校教育おかしいでしょと常識をぶち壊してきます。現代の学校教育の全否定みたいな内容の本です。
AIがAGIに進化しそうな時代にどうすればいいのかと思っているそんな不安を突いてくる本です。らしくあらねばならない的な固定観念を捨てろと価値観の押しつけられてるぞとしつこくしつこく見直すように迫ってきます。
これ教育界の中の人は自分たちを全否定されたみたいな受け取り方になると思います。不安も煽られます。不安を煽って教育改革をなんとか進めたいといった意思を感じました。

AI時代の教育が直面する課題

  1. 知識偏重の限界
    AIが進化する中で、暗記や単純作業はどんどん価値を失っていきます。それなのに、未だにテストの点数ばかりを基準にする教育ってどうなの?本書はその矛盾をビシバシ指摘してきます。

  2. 過剰な能力主義
    偏差値や学歴で人の価値を測る風潮が、学びの意欲を奪ってしまう。これ、よく考えると確かに辛いですよね。「才能」という言葉が子どもたちの可能性を閉じ込めているかも、なんて意見にはハッとさせられました。

  3. 制度疲労
    明治時代からの教育制度が未だに土台になっている日本。さすがにAI時代には古臭すぎる部分もあります。でも、だからって一気に「ガラガラポン」して大改革!…なんて簡単にはいかないですよね。

今の学校はパノプティコン(牢獄)

監視下で勉強を無理矢理させられているようなもんだから、勉強嫌いになるだけだろ的な説明をされます。

牢獄のイメージ

自主性をもって好きで勉強するのが大事なのは、みんなわかってると思います。テストの点数で監視する、一面としてはあるけどそれが全部ではないです。受け身で学ぶ人を量産している。確かにそういう面はある、自主的に楽しく学ぶような学校にすべきなのは関係者もわかってるとハズです。難しいから自主的に楽しく学ぶようにならないだけなんじゃないですかね。
活用すべきなのはアクティブラーニングやゲーミフィケーションなんだろうけど、学校が生徒を追い立てて勉強させることもある程度は必要なのではと思います。

できた最初の当初はよかったがおかしくなっている

学校のクラスというシステムもできた当初は集団に教えるのが教育に効率が良くて画期的でした。子ども時代は学校に通わせて仕事はしなくていいという保護の思想も、今は逆に子どもの社会参加を遠ざけている逆に子どもの権利を奪うシステムになってしまっている。子どもにも社会参加できる機会をもっと増やすべき、参政権を与えるべきではないかと言っています。子どもに対する上から目線で縛っている構図が良くない。その縛りを外してあげて自由に育てるべきではということです。

  • 過剰な能力主義:現在の教育システムは、過度に能力主義に偏重しており、真の学びや個人の成長を阻害しています

  • 学校化社会:イヴァン・イリイチの思想を引用し、学校が社会全体を覆い、競争を勝ち抜いた人々の生活様式が「標準=理想」とされる価値観を生み出していると指摘しています

  • 自主的な学習能力の喪失:現在の教育システムでは、生徒が自ら新しい知識を生み出す能力や本来の学ぶ能力を失ってしまう逆転現象が生じています

  • 時代遅れの教育内容:AI時代に入っているにもかかわらず、暗記や計算の速さを競わせるような画一的な教育を強制することは、子どもたちの未来に対して無責任だと孫氏は指摘しています

  • 制度疲労:特に日本では、明治時代に西洋諸国にキャッチアップするために作られた教育制度を微調整するだけで対応しようとしており、制度疲労が限界に達しています

メリトクラシー・能力主義社会

能力なんて循環論法の幻想だと言い切ってます。教育界の偏差値重視したシステムへの批判だと思います。

「学び」から「遊び」が分かれて、どっちもつまらないものになってしまったこと
「能力」や「才能」という概念がやる気や自信を失わせてしまうこと
能力信仰やメリトクラシーがドロップアウトを生み出しやすい原因となっていること
本来は必要のないペシミズムにおちいった不幸な子どもたちが生まれ続けること
最終的にはほとんどの人の仕事が人工知能にとってかわられてしまうこと

同調圧力が強く働いて人を苦しくさせている。人と違うをゆるさない均一化社会、日本は特に同調圧力が強い社会になってしまっています。

親ガチャ、学校ガチャ?“偶然”の影響

ここでいう「偶然」は、個人が生まれつきや自分の意思で選べない要因のことを指します。以下がその具体例です。本人の努力だけでは左右できない要因といった意味合いになってきます。

遺伝的要因
生まれつきの知能、体力、感性といったものは、生まれる前に本人が選べません。これが能力や学力に影響を与える部分があります。

家庭環境

経済力
例えば裕福な家庭は、質の高い教材や塾、家庭教師といった学習環境を整えやすいですが、そうでない家庭では選択肢が限られます。
文化資本
親がどれだけ教育に関心を持ち、学びをサポートするかも、子どもに大きな影響を与えます。読書習慣や語彙力は家庭環境によって差がつきやすいです。
親の学歴
高学歴の親ほど、子どもの教育に対する情報や戦略を持っていることが多いです。

地域格差
生まれ育った地域が教育資源に恵まれているかどうかも重要です。
都市部と地方で学校や塾の選択肢が大きく異なる。
治安や生活環境が学習への集中度を左右する。

学校や教師との相性
自分が通う学校や担任の質も本人が選べません。一部の学校には熱心で有能な教師が多い一方、そうでない学校もあります。

偶然の出会いや経験
子ども時代に出会った友達や指導者、あるいは何かに興味を持つきっかけも偶然の要素が大きいです。たまたま興味を持った分野が才能として開花することもあれば、出会いがなければその可能性に気づけない場合もあります。

これらが「偶然」と呼ばれる理由
これらの要素は、本人が努力してコントロールできるものではなく、外的な要因として生まれたときから決まっています。そのため「偶然」と表現されるのです。
では「努力」との関係は?
たしかに努力は重要ですが、努力できる環境や方向性も、これらの「偶然」に大きく左右されます。
例えば:良い教材や指導者が手に入らない環境では、同じ努力をしても結果が異なる。
親や学校が「努力の仕方」を教えてくれなければ、努力が空回りすることもある。

ゆたぼんさんを冷静に見てみる

極端な例ではありますが、学校ダメだからって学校に行かない選択をして上手くいくんでしょうか?ゆたぼんさんの例を本書では学校行かなくてもいいじゃんとだけチラッと触れてます。
いやいや、行かなくてホントに良かった?
ゆたぼんさんの不登校の選択は、現代の教育システムへの挑戦として注目を集めましたが、その後の展開を考えると一筋縄ではいかない現実が見えてきます。彼の学校を辞めた理由は「宿題をしたくない」という一見シンプルなものですが、背景には家庭環境や教育システムの課題も潜んでいます。不登校後、彼はYouTubeを中心に活動しましたが、近年のYouTube収入減少や学力テストの成績を見る限り、必ずしも成功とは言えません。学校に行かない選択肢もあり得る時代ではありますが、学校が提供する集団生活での学びや感情のコントロールの習得は、ネットや家庭教師だけでは代替しづらいものです。彼の例は、教育の自由や可能性を考える一方で、家庭や社会の支援が欠かせないことを示しています。レールを外れてもリカバリーできる柔軟な社会の構築が必要です。

ゆたぼんさんの不登校とその後の活動には、家庭環境が深く影響していると言われています。一部では、彼の父親が「毒親」であるとの批判があり、教育や子どもの将来よりも、売名行為によっての収益を優先していたのではないかとの指摘も少なくありません。実際、父親はメディアやSNSを通じて不登校を正当化するだけでなく、それを話題化することで注目を集め、収入を得る手段として利用していたように見受けられます。このような行為は、ゆたぼんさんの教育や人格形成に大きな影響を及ぼし、結果として社会的な孤立やキャリア選択の幅を狭めるリスクを高めた可能性があります。

本来、親は子どもの自主性を尊重しつつも、将来に必要な基礎力や社会性を育む責任を負うべき存在です。しかし、ゆたぼんさんの場合、彼を注目を浴びるための手段として利用した側面が否めません。このような状況は、子どもの成長や学びの機会を損なうだけでなく、子ども自身の心に深い影響を与えることがあります。社会や教育機関、そして家庭が連携し、子どもが健全に成長できる環境を整えることの重要性が、改めて浮き彫りになった事例と言えるでしょう。

一時休養を許す社会へ

学校をドロップアウトしたり、仕事を一旦離脱して学び直そうとする人たちにとって、再び社会に溶け込む道が閉ざされているのが現状です。たとえ意欲を持ってリスタートを切ろうとしても、受け皿が不足しているため、結果的に「レールから外れる」ことが人生の選択肢を大きく制限するリスクとなっています。

偏差値や学歴といったシステムは、完璧ではないにせよ一定の機能を果たしているからこそ、今なお続いています。しかし、社会全体が学び直しや挑戦に対して柔軟さを欠いているため、一度システムから外れると「変わり者」として扱われる風潮があります。特に中高年が大学に戻る場合、学びの成果が新たなキャリアにつながりにくい現状が壁となっています。

「リスキリング」という言葉が注目される中でも、それが「働きながら」を前提としているのは、仕事を完全に離れる選択肢が現実的に難しい社会背景を物語っています。本当に多様な価値観を受け入れるためには、教育システムだけでなく、企業や社会全体が、学び直しを含む柔軟なキャリア形成を支える仕組みを作ることが重要です。一時休養を許せる文化が広がれば、再挑戦が当たり前になり、人々がより生き生きと働ける社会が実現するでしょう。

イヴァン・イリイチの脱学校化を実現しているVIVITA

ゆたぼんさんの例なら、学校大好き!行きたくてたまらない!みたいな学校ならそもそもあんなことにはならなかったですよね。

孫泰蔵氏が2016年に創業したVIVITAは、子どもたちに創造的な学びの環境を提供するグローバル・コミュニティです。VIVITAの主な特徴と活動内容は以下の通りです:

自由な創造の場:VIVITAは「誰でも無料で来れて、つくりたいものがなんでもつくれる場所」を目指しています

国際展開:現在7か国、15〜16ヶ所に拠点があり、約1万人の子どもたちが参加しています

子ども中心の環境:特に立ち上がり期は「子どもしか入れない」場所として運営されていました

多様な材料の提供:産業廃棄物処理業者と提携し、様々な廃材を活用して子どもたちの創造性を刺激しています

心理的安全性の確保:「とにかくなんでもできる」「好きなことをやっていい」という心理的な安全が担保された場所を提供することを重視しています

実践的な学び:エストニアでは、VIVITAの活動から子どものコンサルティング会社が誕生し、実際のビジネス課題解決に貢献しています

組織文化:VIVITAの社員も、Teal組織をベースに自律的で自由な働き方を実践しています

理念の一貫性:「やろうと思えば自分でなんでも出来る」という考えを、社員自身も実践することで子どもたちに伝えることを重視しています

VIVITAは、従来の学校教育とは異なるアプローチで、子どもたちの創造性と自主性を育む場を提供し、グローバルに展開しています。動画の中でVIVITAの活動について触れられてるんですけどこういう活動が元になって本になったんですよね。

雰囲気だけでも見てほしいなぁ。VIVITA

世界は自ら変えられる

常識を疑い、新しい教育を共に描くことは、これからの社会にとって重要なテーマです。世界をより良い方向に変えるためには、私たち自身がまず変わり続ける存在である必要があります。その一環として、「アンラーニング」という考え方をこの本で提唱しています。これは、これまで信じてきた常識や固定観念を一旦捨て去り、根本的に問い直した上で、新たな知識や視点を学び直すプロセスを指します。

学校は、単に知識を詰め込む場所ではなく、自分自身や社会を変えるための「学び直しの場」に進化すべきです。これにより、個人が自分の可能性を広げるだけでなく、急速に変化する社会やビジネス環境にも柔軟に適応できる力を養うことができます。従来の信念や固定されたアプローチに固執することなく、状況に応じて新しいアイデアや方法を取り入れる姿勢が、これからの時代にはますます求められるでしょう。

この本は、まさに刺激に満ちた一冊でした。従来の教育や社会のあり方に対する鋭い批判は、現状を当たり前と思っている私たちの価値観を揺さぶります。「アンラーニング」や新しい学びの提案は、単なる理想論ではなく、今後の社会を形作る現実的なビジョンとして心に響きました。一見すると過激とも思える主張の裏には、教育と社会がどうあるべきかという真摯な問いかけがあります。本書は、私たちが「学び」を見直し、変わり続ける自分を許容する勇気を促してくれる作品です。読むことで、これからの時代にどう適応し、何を大切にすべきかについて深く考えさせられるでしょう。
とにかく刺激が強すぎる本です。

最期までお読みいただいた あなたありがとうございます
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