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新時代のインスタグラム戦略

 友人がある。
 たましいの抜けたような目をしていて、その足音を聞いた覚えがない。待ち合わせは無意識のうちに終わってしまい、しばらく言葉を交わしていると、「じゃ」の一言ですっといなくなる。
 あるとき、
「君は小説みたいな人だ。」
 と彼に言ったことあった。人様が書いた文章を読むときの、己の内部から響き聞こえる声みたく喋るのである。加えて“自分の吐いた言葉を後で回収する”ことを信条としているらしく、また僕自身の人生においても、彼の吐いた言葉を数年越しに思い出し、ハッとなることが多くあった。
「古典の精神性をもっているからね。」
 彼はそう言うと、また全く異なる話を始めるのである。
 
 
 2022年、9月25日。
 我々において高校2年の秋にあたる頃、彼は“新時代のインスタグラム戦略”なる言葉を使い始めた。「これは大切なことだ」とも言っていた。しかし彼のインスタグラムはあまり更新されることがなかったし、例のごとく説明の少ない奴であるから、当時の自分には「読み飛ばした一文」とでも言うべき、なんでもない出来事であった。
 
 それから1年と半分が経って、僕は高校を卒業して大学生になった訳だが、奇妙な、いや至極大学の本分を了解している授業と出会った。よく喋る教授の背後に、よく喋りそうな字で「学問は隠れんぼうだ」と書かれている。なんとなく、彼を思い出した。
 
 その授業の教材は大変興味深かった。一つはルソーの『孤独な散歩者の夢想』であり、要は思索ということそのものを提示している。もう一つが衝撃的であり、なるほどと思わざるを得なかったのだが、それは木下直之の『木下直之を全ぶ集めた』であった。ページ一枚が所謂なんでもない写真とそれに対する数行の“感想”で構成されており、ところどころエッセイも挟みこまれている。
 この”感想”が良いのである。幾つか読んで感動を覚えた。というのも、この本において”感想”を抱いているのは、“冷めた視点”であり、“メタ認知”であり、己の興奮に水を差す“現実性の雨”なのだ。すなわち、映画館の大スクリーンの中でヌルヌルと動き回り、恋だの革命だの叫んでいる“僕”を鑑賞しながら、コーラをスルスルと飲み、口に放り込んだポップコーンをくしゃくしゃと嚙みつぶし、それからニヒルに笑って、“僕”へ二言三言吐き付けるあいつ、なのである。
 しかしここで非常に重要なのは、あいつは、世界をそれなりに面白がっているということだ。いやもしかすると、僕なんかよりも愛情深いのかもしれず、草花や信号機や水のペットボトルに親しみを覚えている。散歩とは、”僕”が世界との接地点になって質量を失う一方、身体をあいつに任し、好き勝手に喋らせる営みなのではないか。そして写真を撮る行為とはすなわち、身体をあいつに引き渡す儀式なのではないか。すると、片手に収まる純黒のデジタルカメラに、“僕”というものがすっぽり溶け込んでいくように思われる。
 
 とここまで言ってしまえば、またあいつが囁いてきて、僕は‘我に返る’訳だが、あながちつまらない話でもないので書き記しておいた。
 
 そういえば、あいつも「無意識のうちに」出現し、「しばらく言葉を交わしていると」「すっといなくなる」のだった。
 
 僕はこの散歩を「新時代のインスタグラム戦略」と名付けた。


「新時代のインスタグラム戦略」

孤独に生きる

孤独を愛しなさい。
とベンチに諭されている。
彼は、世のベンチを「堕落」と捉えるやもしれず。


草花

断頭台のようだと思った。


赤信号

彼に従い、立ち止まって気が付いた。
一本足とは滑稽である


たっぷり600ml

「自然が大切に育てた水」が110円で売られている。
「両親に愛されて育った僕」が時給1200円で働いている。


築地に吉野家発祥の地がある。正確には日本橋の魚河岸の近くで始まり、魚河岸の移転と共に築地に移ったらしい。
市場の力仕事に精を出す労働者達に「早い、うまい、安い」牛丼は愛された。
栄養摂取の最適化は、さて人間をどこに向かわせるのだろう。
ここは吉野家の墓でもある。


TOKYO

浜離宮。
日本式庭園と高層ビルディングが同じ画角に入るということ。大江戸を想いながら、東京を歩く。
ある意味二次創作的なTOKYOを、僕は誇りに思っている。


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