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Lazyに夢想する ①

 最近随分と薄れているけれど、「(君と)共に生きたい」という欲求を如何に満たすか、は一つ、人生の主題になる予感がしている。

高校を卒業して二か月と少し経つ。
関係性の維持、を目的化しないよう、なるべく意識の外側に追いやりながら、すなわち何となく会いたいという動機で、週に1, 2回、中高で出会った友人(高校時代の友人、にしたくないと思っている)と二人っきりでご飯に行くのが習慣化した。

大学生同士の付き合いは常に虚しさを伴う。
無制限の余暇と無制限に変態しうる自我、はもうない。故に、「共に生きる」未来があまりにも想像できなくなる。
高校時代、中庭にテントを建てよう!と言ったら次の日にはテントが建った。放課後海に行こう、と言ったら放課後僕達は海にいた。君と運動会がやりたい、と言ったら、次の日から理想の運動会について語り合えた。突発的な思い付きがあって、それがワクワクするというだけの理由で、僕達は「共に生きる」が実現できたし、足跡はヌルヌルと動く物語に変換された。
しかし、今の僕は18世紀後半の江戸の町人と喜びを共有しており、君はevo-devoなる分野の珍道中を浮遊しているのであって、ラジオのゲストトークの如くお互いの知見と発見を数時間語り合うことはできても、では来週から君もMCとして一緒に番組を頑張っていきましょう、とはならないのである。
こうなると未来は藪の中とはいえ、進む道ならぬ密林が明確に異なる人間と、「共に生きる」にはどうすれば良いのか、すなわち君と僕とが思い出話をする暇のない世界をどう創造すれば良いのか、というのが自然、話題に上がってくる。

さて、『逃走』か『闘争』か。
『逃走』とは君と旅をすることであり、『闘争』とは社会変革、すなわち「共に生きる」楽園を創造することである。
 
 旅、には散歩も含まれよう。
要は横に並んで歩き、または新幹線の座席に座り、それとも吊革に掴まってマチマチのリズムで揺れながら、その瞬間に生まれた言葉で会話と沈黙を楽しむこと。

旅、いや本質は他者の存在にあるのだが、は旅行者に擬似同好会を結成させ、普段は入りもしない寺社仏閣の沿革、または見もしないありふれた饅頭、日々車窓から見える夕焼けと大して変わらぬ空模様、に喜びを見出す異常者を自然と作り出す力がある。帰りの飛行機に間に合うのであれば、「無制限の余暇と無制限に変態しうる自我」を許される。旅はその相手が普段学問をしていようがスポーツに勤しんでいようが、寝て起きてを繰り返す猫もどきであろうが、確かに「共に生きる」を実現できるのだ。

よって社会に出て自分がするべきこと、すなわち人様の幸せに貢献できることとして、旅の拡充に携わることは至極真っ当である、と言える。それは如何なる街が旅人、すなわちそこで散歩する人々にとってより「共に生きる」を可能にするワクワクを提供しうるかという問いでもあるし、所謂テーマパークもその手段であろう。
なるほど、“藪”は大きい。

しかし、では貴様の生活はどうなるのだ、という声が心のうちから聞こえてくる。その声は往々にして恋と革命を人生の意義と捉えているのであるが、実際、旅とは非日常であることをもって旅なのであって、日常にあたる生活は救わなくても良いのか、という問題がある。

故に夢想せざるを得ない。
一体、僕におけるユートピアはどんな世界なのだろうか。



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