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リアクション: 弘前経済新聞 【特集】どうなる?弘前市の中心商店街〜激動の2024年から考える未来〜

こちらの記事を読んだだろうか。まだ、という弘前に所縁のあるひとは一度読んでほしい。

先に言ってしまおう。

ぼくにとって弘前は、すでに離れたまちである。"弘前"にとってもぼくは、すでに離れたひとである。

しかし、ぼくにとって弘前は特別なまちである。"学生時代"を過ごし、たくさん失敗し、たくさん挑戦したまちである。"人生の夏休み"に人間性を育んでくれたまちである。学ぶまちは暮らすまちらしいが、それは学生視点だ。"弘前"視点からは、育んでやったと言われても(少なくともぼくは)何も言い返せない。

同じように、弘前のことを特別だと思っている弘前大学OB・OGは確実にいる。しかし、寂しいニュースばかりが聞こえてくると「あの"弘前"はもうないのか」と悲しくなる。他人任せで身勝手だが、もう離れた人間にとってはそのくらいになる。あの頃の弘前と、今の弘前が離れていくほど、"心"が離れていく感覚がある。

それでも離れていったやつってのは、生活に何も困らない。むしろ前進していく。

でも、やっぱり寂しい。

自分にできることはあるのだろうか。
"ひろけい"の記事から考えてみよう。


地方の小売業について

実は鎌田は卒論で弘前のまちをこちらの記事と同様な手法を用いて調べたことがある。先行文献であったゼミ教授の杉山先生のやり方を真似ただけであったが、街の流れが見えてくる方法である。自分は全国、青森、弘前、弘前の書店、弘前の教育、本好きの個人を並べていた。

弘前の小売業の推移は、書店の推移とも重なる。書店も書店数はかなり減ったが、売場面積は維持もしくは増床していたりする。それは小規模事業者/個人経営が減り、大規模チェーンが地方のパイを奪いに来たきた歴史でもある。

正直、チェーンストアは資本主義に則って、何も悪いことをしていない。天下のウォルマートさんと一緒だ。競合をいままで培ってきた力(資本力や戦略)で叩き潰し、経営を維持/拡大することで、より良いサービスを"お客さま"に提供する。誰が言ったか忘れたが、世界で1番お客さまのことを思っている企業はAmazonだと言われて納得するだろう。だって便利だし、安いし。

話が逸れたが、ぼくが聞いてきた"かつての本屋"の話は、羨ましくなるほど"豊か"だった。本屋でナンパしたり、階段の踊り場の壁が情報交換場所だったり、2階の喫茶店が"知識人サロン"だったり……。

人文学が"豊か"と表現したときは、ほぼ懐古厨じゃないかとの批判を読んだことがある。しかし、自分が聞いた"本屋"には"物語のはじまり"のようなソワソワした気配があった。

さて、そんな本屋を経験してこなかったぼくら世代は"本屋"を何だと思っているだろうか。極端に表現すると"カネと本を交換する場所"ではないか。

本屋に特別な思い出あるひとのほうが少ない。だから「あなたにとって本屋とは?」と問われても、「いやぁ、別に……」だろう。そこで語り出すやつは変人だから、今の"住民"ではない。

小売店も同様だと思う。記事内で土井先生、中村さんが言及しているように「ユニークな個店」「魅力ある個性的なお店」は、「アイデンティティ」や「シビックプライド」の源泉になり得る。

"おわりに"で福田さんはこのように書く。

弘前のソウルフードと呼ばれるみそラーメンの人気店が消えることは一大事ですが、どこか土手町から核店舗が失われることへの危機感が追いやられているようで、その後にヒロロでの営業再開が決まるや、その一報で手放しで喜んでいるような人が少なくなかったことから、かつての「土手町ブランド」はもはや存在せず、街の求心力が失われてしまったと痛感しました。

弘前経済新聞 【特集】どうなる?弘前市の中心商店街〜激動の2024年から考える未来〜

いやはや、痛烈。この文章を書いて、"弘前経済新聞"として出すことのできる凄さですわ。ぼくはこのようなSNSでの反応を次のように読んだ。

中三/土手町がどうなろうと(行かないし)知ったこっちゃないが、中みそがなくなるのは困る。

これが弘前の"住民"の声だろう。

確かに自分も土手町自体に強い思い入れはない。土手町の"あの店"に思い入れがあるだけだ。店が無くなることは一大事だが、その店が"土手町"にあることは別にそこまで大切ではない。

ここまで書き散らして、問いが出てきた。

  1. 個店に宿るお客のアイデンティティは、地域/エリアに波及するだろうか

  2. そもそも個店に宿るお客のアイデンティティを、地域/エリアに波及させなければいけないのか

  3. 今まではどのように地域/エリアに対するアイデンティティを形成してきたのか

これ読めなど、ご意見くださいませ。

実はそこまで暗くないんじゃないか

タイトルや内容はショッキングであるが、この記事を執筆/発信することができる"ひと"がいるというだけでも、弘前の将来は実は暗くないんじゃないかと思う。

さて、上にあげたのは青森市で実践された「第1回リノベーションスクール@青森」の記事と、リノベーションスクールの根幹にある考え方「エリアリノベーション 変化の構造とローカライズ/馬場正尊」である。

実は鎌田も2019年のスクールには参加していた。実力不足を痛感するきっかけとなったいいスクールだった。

さて、エリアリノベーション 変化の構造とローカライズ/馬場正尊 では、エリアリノベーションにおける共通項について"4つのキャラクター(役割)"という言及がある。

4つのキャラクターは以下の通りだ。

  1. 不動産キャラ(調整する人)

  2. 建築キャラ(空間をつくる人)

  3. グラフィックキャラ(世界観をかっこよく表現する人)

  4. メディアキャラ(情報を効果的に発信する人)」

詳しくは記事を読んでほしいが、ここの分類に自分の知っている弘前の事業者を当てはめていく。もちろんそれ以外もいるが、"まちへの想い"を持っていそうな事業者を選出した。何も許可を得ていないので、怒られたときはごめんなさい。尊敬しています。

  1. 不動産キャラ(調整する人)
    ・(恐らく)中村公一さん
    ・弘前市役所都市計画課
    ・大川地建
    ・株式会社FATE
    ・Stand Alone Complex

  2. 建築キャラ(空間をつくる人)
    ・蟻塚学建築設計事務所
    ・イトー建設

  3. グラフィックキャラ(世界観をかっこよく表現する人)
    ・Hirosaki_AIR
    ・デザイン工房エスパス
    ・Science works
    ・farm in
    ・赤石弘幸デザイン事務所
    ・リンゴミュージック

  4. メディアキャラ(情報を効果的に発信する人)
    ・弘前経済新聞
    ・コンシス
    ・アップルウェーブ

いや、多いなと。建築キャラが手薄なのは、弘前大学には建築学部がないことも影響があるのではと考えている。弘前大学大学院 地域社会研究科には、北原先生という凄まじい先生がいらっしゃったがすでに退官されている。ハードの建築では弘前工業高校に建築科があるくらいか。

或るひとは実務だけでなく想いを発信し、或るひとはとことん現場にいて背中で語る。

手を取ってほしい、とは思わない。お互いがどういう関係か知らないが、結局は同じような方向に向かっているからだ。

"住民"とは誰か-インパクトの定着に向けて

住民生活論Aという講義が弘前大学人文社会科学部であった。杉山先生の講義だった。初回、杉山先生の穏やかな雰囲気と素敵な声で、多くの同期たちが安らかに遠くの世界へ誘われたことをよく記憶している。

そんな講義ではじめの問いに、「住民とは誰か」というものがあった。弘前経済新聞の記事でも「弘前の住民が一人でも多く街に注目し続けること、関心を持ち続けること」の一文が太字になっていた。

何かを言っているようで、何も言っていないことばだと思う。住民と呼ばれて「そうか、俺も関心を持たないとな……」と当事者意識をもてるひとは多くないだろう。

では、住民とは誰だろうか。

地方自治法上では「市町村の区域に住所を有する者は、当該市町村およびこれを包括する都道府県の住民とする」そうだ。なおかつ「市町村の区域内に住所を有している者は、自然人だけでなく法人も、地方自治法上の「住民」に含まれ」るという。

全員住民になりそうな定義だな。ただ、恐らくこの記事の文脈で言われているのは、当事者意識を持とうということなのではないかと解釈する。他人事じゃないぞと。(むしろ、街への当事者意識を持っていないひとを、"住民"と呼ばないようにする方が……いや過激か)

間違いなく弘前の"住民"が、街で起こっていることに関心を持ち続けることは大切なことだ。しかし、まちの"住民"としての街のことへの当事者意識は、日々の暮らしで薄れるし、当事者意識なんてない方が楽に生活できる。

では、どうやってその意識を持たせ続けるか。
言い換えるなら、なんらかの機会に発言した"当事者意識"をいかに定着させるかである。

偉そうに指摘してみたが、ノーアイデアである。流石にこの記事を始めてから3時間、カフェインも切れてきた。これ読めとか、ご意見くださいませ。

気になる:ヤンキーの虎/地元の名士/ライトブルー人材/複業人材

最近気になっているのは、「ヤンキーの虎」と「地元の名士」、「ライトブルー人材」「複業人材」についてだ。まずは先の3つについて。

https://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC557_2023.pdf

各語の説明はリンク先を読んでほしい。

自身がそうであったように、思いや理念が先行し、"頭でっかち"で現実はなにも動いていない。何かをやっても、クリティカルじゃない。一過性の効果しかないイベント、開店閉店での人集め。

ぼくは大いに悩んだ。

本来は継続することで突破できる課題だったと思う。しかし、身勝手だが自分にはタイムリミットがあった。そのなかで足掻けるだけ、足掻いてみたつもりだ。万事は上手くできなかったけど。

この概念に注目しているのは、これらが"土の人"に関するものだからだ。その地に暮らし、その地で生きていく。土から逃れられないひと、とも言えるかもしれない。恐らく"当事者意識"なんて言わずとも、人格に当事者意識が染み付いているひとたちである。

ぼくはこの人たちに憧れている。農業が長いスパンで輪作体系を組み、土を作っていくように、覚悟とある種の諦めをもってそこで生きていくひとたちを尊敬している。

ぼくは"風の人"である、であった。だから、"土の人"のことを知らないといけない。

では、"風の人"としての自分に何ができるだろうか。"複業人材"に活路があると考えている。

生活するには何がいるだろうか。衣食住が保障されること、その分の賃金を稼げること、次世代を育むための貯蓄がつくれることだと思う。本当に必要なのはエッセンシャルな仕事である。

"まちづくり"を専門に行う人材は、生活上いらないのだ。専門職すぎるし、何も生み出していない。地域にはそんな専門職を食わせてやるほど、余裕はない。だからこそ、そこを"複業人材"で補えないだろうかと思う。

例えば、弘前に思いがあって、弘前の仕事なら喜んで報酬度外視で、本業の業務時間外に取り組んでしまうどこかのメガネのようなやつだ。

しかし、そんなメガネの悩みは「何をしていいかわからない」ことだ。メガネも生きていくためには本業をしないといけないし、時間は使えてもカネに余裕はない。"土の人"と"風の人"の間を取り持つ役回りが欠落している。複業者向けのクエストボードがあると助かるんですが、いかがですかね。いや、つくればいいのか?

まとまらない

考えていることをぶちまけつつ、気づけば4,600字。もうそろ締めたいところだが、もうまとまらない。

もしアナザースカイに出られるなら、ぼくは間違いなく弘前にいくだろう。そのときに「ここにはこんな場所があってね……」なんて、気づいたら寂しそうなブラタモリなんてイヤなのだ。

なんか、自分にもできることないすかね。
時間の限り頑張ります。

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