三日坊主日記 vol.179 『映画と方言』
昨日、舞台設定が大阪でほぼ全編全員が大阪弁を喋っている映画を見た。
それ自体は珍しいことではない。僕が撮った映画も2本共大阪が舞台で出演者も基本的に大阪弁を喋っている。内容的に大阪(関西)が舞台でないと成立しないものも沢山ある。そして、大阪弁を正確に喋らないと物語の根幹を揺るがしかねない場合もある。大阪に限らず、四国だったり、九州だったり、広島だったり。そしてもちろん東日本に於いても同じことが言えるだろう。
しかし、昨日見た映画はあまりそこにこだわる理由が見えない。東京でも横浜でもいいんじゃないか。それよりも出演者の間違った(奇妙で気持ちの悪い)大阪弁が気になり過ぎて内容が全く入ってこないし、俳優たちの演技の幅を制限しているようにも見えるし、映画のリズム自体を乱しているようにも感じた。問題だと思うのは、この作品の監督は巨匠とも言えるベテランで、俳優陣もメジャーな人たちが名を連ねているというところである。
この作品はどうしても大阪を舞台にしなければならなかったのだろうか。そうだとして、皆が大阪弁を話す必要が果たしてあるのだろうか。あるのだとしたら、どうして俳優陣に正確な大阪弁の指導を徹底しなかったのか。そもそも大阪で暮らしているからといって大阪弁を話さないといけないことはない。大阪弁でも北の方と真ん中あたりと南の方では違うし、大阪出身ではない人も沢山住んでいる。東京と同じで戦中戦後のどさくさや、1970年の大阪万博の時に地方から出てきた人もかなり大勢いる。
なのに、全員にステレオタイプの大阪弁を喋らそうとして、結局ほぼ全員が(大阪出身の一部の俳優を除いて)気持ちの悪い大阪弁を喋る羽目に陥っているのである(特に主役の大阪弁が酷いので余計にそう感じる)。結局は監督が大阪弁話者じゃなかったのかも知れない。いくら方言指導の人がいても最終判断をするのは監督だし、監督がOKを出しているのに周りはなかなかNGを出しづらいのだ。
作品の中で優先順位(ルールというか物差しですね)をどう付けるか。そしてその優先順位をいかに守って、作品としての完成度を上げていくか。ここは監督の腕の見せ所なのだ。そういう意味で言うと、この監督はちょっと雑なところがあるのかも知れないし、他の作品でも同じようなことをしていると言われても仕方がない。
名前を出していないことをいいことに、勝手なこと言ってごめんなさい。しかし、他人事ではないな。