永井荷風 『ふらんす物語』『あめりか物語』
アメリカ嫌い
二十代前半の荷風はエミール・ゾラとギィ・ド・モーパッサン、ボードレールの文学に心酔しており、当初は彼らが描いた世界を直接目で見たいという動機からフランス留学を望んでいた。
ところが、上級官僚であった父親は長男に実業を学ばせようと考え、荷風を日本郵船の信濃丸でアメリカに向かわせた。アメリカは荷風にとってフランスにたどり着くまでの通過地点にすぎなかった。
ワシントン州のタコマ市で英語を学び、ミシガン州の大学の聴講生をしているうちに最初の二年が過ぎる。日記「西遊日誌抄」によれば、フランス移民の多いルイジアナの大学への入学まで企てている。アメリカ滞在中なのに、フランス語の家庭教師を雇い、ボードレールを仏語の原書で読んでいたという。『ふらんす物語』の「再会」にも同じようなことが書いてある。
パリへむかう
その後、フランスへの渡航費用を稼ごうとニューヨークで仕事を探しはじめ、結局、父親の口利きで横浜正金銀行の現地職員に採用され、さらに二年近くをそこで過ごす。
アメリカに渡航して約四年が過ぎたとき、銀行からリヨン支店への転勤を命じられ、ようやくフランスの地を踏むことになる。その異動の裏には父親の口利きがあった。
感激は大きかった。『あめりか物語』付録の「船と車」に、ル・アーブルから汽車に乗ってパリのサン・ラザール駅に初めて着いたときの感激が書いてある。
そのときは会社に雇われていて、すぐにリヨンに行かなくてはならず、パリには二日しか滞在できなかった。荷風は馬車を一日雇い入れて、市中を巡り歩いた。
巴里のパサージュ
「巴里のわかれ」でもわかるように、『ふらんす物語』の特徴は、現実のパリの風景にボードレールやモーパッサンやゾラの作品に表れた風景を重ねていることだ。
荷風はパリのパサージュと呼ばれる街路や通路を歩きながら、街の風景のなかに過去の記憶の痕跡を見つけている。
ベンヤミンは「パサージュ論」で、このような人のことを「パリの遊歩者」と呼んでいる。パリという場所がそうさせるので、パリに滞在する異邦人はとりつかれたように延々と歩いてしまうのである。
大げさに思えるかもしれないが、荷風にはアメリカの四年間があり、パリでボヘミアンとして、異邦からきた遊歩者として歩いた二ヶ月間があったから、このように言うのも当然かもしれない。ちなみに「アデュー」という題は、モーパッサンの言葉から来ているようだ。
「ADIEU(わかれ)は、人間のまぬがれ難い運命だと、そういいました。」(「巴里のわかれ」)
東京のパサージュ
若き頃の荷風のパリと、後年の荷風の東京=江戸を比較してみるとおもしろい。岩波文庫の摘録で『断腸亭日乗』を読み継いでいる。これを読んでいると、日記と日誌の違いは何であろうと考えてしまう。
「大辞林」「大辞泉」などの辞書によれば、「日記」が個人的な毎日の記録であるのに対し、「日誌」はより業務的な内容のもののことを指すいう(学級日誌、航海日誌など)。また、「日誌」には物事の帳面という性質もある。
『断腸亭日乗』は個人の日記文学であるが、それと同時に、公人としての作家・永井荷風の業務内容や帳面を記したものでもある。他人に読まれることを前提にして書かれたものであるからだ。作家にとっての「帳面」とは何であろう。それは文章を書くための元になる素材を集めることである。
「壺中庵記」の「壷中庵」は、荷風が囲いものにした二十歳すぎのお歌という女の妾家のことである。最初この小文は「主人」という三人称で書き始められ、そのまま小説に転用できるような文体で書き進められるのだが、最後にその主人とは荷風本人であると明かされる。
これは荷風の一種のおのろけ話なのであるが、こういうところは日記ならではの味がある。お歌が病気になり、ほとんど狂女となって再会するシーンは、荷風の散文作品かと見まがうほどの緊張感の高さがある。
続いて、西洋人の男性を好む、当世風の銀座のカフェの女給お道の身の上話が書かれているが、明らかにこのようにして題材の備忘録的に使っている面があるようだ。
荷風のならではの視点から、容赦なく文明批評がくわえられるのも『断腸亭日乗』の魅力の一つである。一介の労働者が書面を自宅へ送り、原稿の添削をしてほしいと面会を求めてくるくだり。文学志望者を根絶する話から、自分の文章を発表しないことにしようと考え、これを関東大震災後の世相の変化だと捉える。
また、かつては若くして老人の妾になる女を馬鹿にしていたが、これも賢い選択であり、東京や巴里などの文化の爛熟した都会にしか見られない現象だという一人よがりな文明批評。あるいは、世の文学者は下宿屋とカフェしか世間を知らず、人間のうちで最も劣等な連中だと罵るあたりも、荷風ならではの独我性がよく見える箇所となっている。