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永井荷風 『ふらんす物語』『あめりか物語』


アメリカ嫌い

フランス! ああフランス! 自分は中学校で初めて世界史を学んだ時から、子供心に何という理由もなくフランスが好きになった。自分はいまだかつて、英語に興味を持った事がない。一語でも二語でも、自分はフランス語を口にする時には、無上の光栄を感ずる。自分が過る年アメリカに渡ったのも、直接にフランスを訪うべき便宜のない身の上は斯る機会を捕えよう手段に過ぎなかった。

「巴里のわかれ」『ふらんす物語』

二十代前半の荷風はエミール・ゾラとギィ・ド・モーパッサン、ボードレールの文学に心酔しており、当初は彼らが描いた世界を直接目で見たいという動機からフランス留学を望んでいた。
ところが、上級官僚であった父親は長男に実業を学ばせようと考え、荷風を日本郵船の信濃丸でアメリカに向かわせた。アメリカは荷風にとってフランスにたどり着くまでの通過地点にすぎなかった。

ワシントン州のタコマ市で英語を学び、ミシガン州の大学の聴講生をしているうちに最初の二年が過ぎる。日記「西遊日誌抄」によれば、フランス移民の多いルイジアナの大学への入学まで企てている。アメリカ滞在中なのに、フランス語の家庭教師を雇い、ボードレールを仏語の原書で読んでいたという。『ふらんす物語』の「再会」にも同じようなことが書いてある。

吾々は共に米国にいながら、米国が大嫌いで、というのは、二人とも初めから欧州に行きたい心は矢の如くであっても、苦学や自活には便宜の至って少い彼の地には行き難いので、一先米国まで踏出していたなら、比較的日本に止まっているより、何かの機会が多かろうと、前後の思慮なく故郷を飛出した次第であったからだ。

「再会」『ふらんす物語』


パリへむかう

その後、フランスへの渡航費用を稼ごうとニューヨークで仕事を探しはじめ、結局、父親の口利きで横浜正金銀行の現地職員に採用され、さらに二年近くをそこで過ごす。
アメリカに渡航して約四年が過ぎたとき、銀行からリヨン支店への転勤を命じられ、ようやくフランスの地を踏むことになる。その異動の裏には父親の口利きがあった。 
感激は大きかった。『あめりか物語』付録の「船と車」に、ル・アーブルから汽車に乗ってパリのサン・ラザール駅に初めて着いたときの感激が書いてある。

汽車の響きにその窓、その花園から、こなたを見返る女の姿を見て、これまで読んだ仏蘭西劇や小説に現われている幾多の女主人公を思い出すばかりであった。

「船と車」『あめりか物語』

そのときは会社に雇われていて、すぐにリヨンに行かなくてはならず、パリには二日しか滞在できなかった。荷風は馬車を一日雇い入れて、市中を巡り歩いた。

シャンゼリゼの大通り、凱旋門、ブローニュの森、または名も知れぬ細い露地の様に至るまで、自分は、見る処、到る処に、つくづくこれまで読んだフランス写実派の小説と、バルナッス派の詩篇とが、如何に忠実に、如何に繊細に、この大都の生活を写しているか、という事を感じ入るのであった。

「船と車」

荷風がパリに滞在できたのはこの二日間と、その後、八ヶ月の間リヨンの銀行で働いて、フランス滞在の最後にもう一度だけ、二ヶ月間をパリで過ごした。
このときはボヘミアン生活を謳歌したようだ。
銀行員という職につきながら、ブルジョワ社会の一員になることを精神的に拒否してきた荷風にとって、パリでのボヘミアン的な生活は芸術家としての自己演出に他ならなかったと指摘する人もいる。

『異都憧憬 日本人のパリ』今橋映子著

すべては皆生きた詩である。極みに達した幾世紀の文明に、人も自然も悩みつかれたこの巴里ならでは見られない、生きた悲しい詩ではないか。ボードレールも、自分と同じように、モーパッサンもまた自分と同じように、この午過ぎの木陰を見て、尽きぬ思いに耽ったのかと思えば、自分はよし故国の文壇に名を知られずとも、藝術家としての幸福、光栄は、最早やこれに過ぎたものはあるまい!

「巴里のわかれ」

巴里のパサージュ

「巴里のわかれ」でもわかるように、『ふらんす物語』の特徴は、現実のパリの風景にボードレールやモーパッサンやゾラの作品に表れた風景を重ねていることだ。
荷風はパリのパサージュと呼ばれる街路や通路を歩きながら、街の風景のなかに過去の記憶の痕跡を見つけている。
ベンヤミンは「パサージュ論」で、このような人のことを「パリの遊歩者」と呼んでいる。パリという場所がそうさせるので、パリに滞在する異邦人はとりつかれたように延々と歩いてしまうのである。

自分は寝台の上から仰向きに、天井を眺めて、自分は何故一生涯巴里にいられないのであろう、何故フランス人に生れなかったのであろう。と、自分の運命を憤るよりは果敢く思うのであった。自分には巴里に死んだハイネやツルゲネフやショーパンなどの身の上が不幸であったとは、どうしても思えない。とにかく、あの人たちは止まろうした藝術の首都に永世止まり得た藝術家ではないか。

「巴里のわかれ」

大げさに思えるかもしれないが、荷風にはアメリカの四年間があり、パリでボヘミアンとして、異邦からきた遊歩者として歩いた二ヶ月間があったから、このように言うのも当然かもしれない。ちなみに「アデュー」という題は、モーパッサンの言葉から来ているようだ。 
「ADIEU(わかれ)は、人間のまぬがれ難い運命だと、そういいました。」(「巴里のわかれ」)


東京のパサージュ

若き頃の荷風のパリと、後年の荷風の東京=江戸を比較してみるとおもしろい。岩波文庫の摘録で『断腸亭日乗』を読み継いでいる。これを読んでいると、日記と日誌の違いは何であろうと考えてしまう。
「大辞林」「大辞泉」などの辞書によれば、「日記」が個人的な毎日の記録であるのに対し、「日誌」はより業務的な内容のもののことを指すいう(学級日誌、航海日誌など)。また、「日誌」には物事の帳面という性質もある。
『断腸亭日乗』は個人の日記文学であるが、それと同時に、公人としての作家・永井荷風の業務内容や帳面を記したものでもある。他人に読まれることを前提にして書かれたものであるからだ。作家にとっての「帳面」とは何であろう。それは文章を書くための元になる素材を集めることである。

「壺中庵記」の「壷中庵」は、荷風が囲いものにした二十歳すぎのお歌という女の妾家のことである。最初この小文は「主人」という三人称で書き始められ、そのまま小説に転用できるような文体で書き進められるのだが、最後にその主人とは荷風本人であると明かされる。
これは荷風の一種のおのろけ話なのであるが、こういうところは日記ならではの味がある。お歌が病気になり、ほとんど狂女となって再会するシーンは、荷風の散文作品かと見まがうほどの緊張感の高さがある。
続いて、西洋人の男性を好む、当世風の銀座のカフェの女給お道の身の上話が書かれているが、明らかにこのようにして題材の備忘録的に使っている面があるようだ。

荷風のならではの視点から、容赦なく文明批評がくわえられるのも『断腸亭日乗』の魅力の一つである。一介の労働者が書面を自宅へ送り、原稿の添削をしてほしいと面会を求めてくるくだり。文学志望者を根絶する話から、自分の文章を発表しないことにしようと考え、これを関東大震災後の世相の変化だと捉える。
また、かつては若くして老人の妾になる女を馬鹿にしていたが、これも賢い選択であり、東京や巴里などの文化の爛熟した都会にしか見られない現象だという一人よがりな文明批評。あるいは、世の文学者は下宿屋とカフェしか世間を知らず、人間のうちで最も劣等な連中だと罵るあたりも、荷風ならではの独我性がよく見える箇所となっている。

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