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棄てられた猫、棄てられなかった猫
昔から、そうだった。
映画でも舞台でも、若く見目麗しいスター俳優さんより、親の役を演じるような年配の役者さんに心奪われる。
どんな役も大切なものだが、誰かのお父さんやお母さんを演じるというのは特別な役割を担うものだと思う。
親の役は、その息子あるいは娘の役を表現するという役目と責任を持っている。
舞台の上の親子を観ると、どんな設定であってもお互いを映しあっているように思う。
実際の親子でも、そうだろう。
仲の良い家族もいれば、そうではない家族もいる。
肉親との関係性は人それぞれでも、個人にとって最も縁の深いひとであることは確かだ。
肉親について知ることは、自分自身を知ることでもある。
「猫を棄てる 父親について語るとき」 (著)村上春樹 (絵)高妍 文藝春秋
この本は、村上春樹さんが辿った、お父さんの人生の物語である。
もしも、お父さんご本人が自分の人生を語っていたら。
おそらくここには、全く別の物語が表れていただろう。
実際の出来事としてどちらが正しいか間違っているか、ということはそれほど重要ではないように思える。
どちらも真実の物語だ。
ある夏の日、春樹さんとお父さんは一匹の猫を棄てに行った。
その記憶の結末は、思い出すたびに皆で笑えるような面白いエピソードにもなり得ただろう。
でも、春樹さんとお父さんにとってそうはならなかった。
なんということのない、でも少し謎めいたある日の出来事。
そんな1日が積み重なって、人生の形になる。
春樹さんの人生とお父さんの人生、別々の時間の集積の中で重なり合う1日の記憶がある。
この作品は、戦争の姿を描いた物語としても印象深い。
文献上に、「ほぼ全滅した。」という簡潔な一文で記された部隊の記録。
とてつもない数の人生が、誤った作戦に翻弄され懐かしいふるさとに二度と戻ることのなかったひとたちが、たった6文字の中に乱雑に葬られている。
戦争を生き抜いた当事者であるお父さんは、その体験を語ろうとはしなかった。
だから春樹さんは記録を調べ、戦争中のお父さんの行動を追う。
読み手もまた、文献の簡潔な一文を斜め読みするのではなく、実在したひとりの青年の足跡を見つけて辿っていく。
そうすると、歴史の教科書の中では数行でしかなかった戦争が、顔と名前を持つ誰かの経験として目の前に立ち現れる。
自らの戦争体験を語らなかったお父さんが、ただ一度春樹さんに、苛烈な思い出を語る場面がある。
そこまで読み進んだ私は、エピソード自体のインパクトに心囚われてしまいそうになった。
その時、見開きに広がる挿絵に胸をつかれ、私は言葉を失った。
寂しいけれど、不思議と心安らぐ風景が本の中に描かれていた。
荒涼とした土地。
鳥たちが舞う、悲しいほど明るい空。
行き場を失った思いが広大な世界に解き放たれると、物語は私を再び迎え入れてくれた。
読み手に、ほんとうに伝えたいことがあって、挿絵がその本質へと確実に導く。なんと素晴らしい作品。
お父さんの人生の歩みが何かひとつでも違っていたら、春樹さんは生まれなかった。
お父さんの人生を知れば知るほどそう感じ、春樹さんは自分自身が透明になるように思う。
手のひらが透けて見えるようだと、春樹さんは書いている。
私は、その逆だ。
この物語を読み進めると、お父さん、そして春樹さんの存在がはっきりと像を結び、色濃くなる。
いつだって、どんなことだって、そうなのだ。
私は、一人では生を実感できない。
私の透けた手のひらは、縁のあるひとを知り、自分を知ることで段々と色濃くなっていく。
これは一見、春樹さんの語る感覚と真逆のように思えるが、実は同じことだ。
私たちは、偶然が生んだ事実を唯一無二の事実としてとらえているに過ぎない、と春樹さんは書く。
事実は一つであり、一つではない。
謎めいたあの日の記憶も。
生まれて初めて読んだ村上春樹さんの作品が、「猫を棄てる」であることが良かったのかどうか分からない。
だがこれも、偶然こうなったという事実に過ぎない。
平凡な、私の事実だ。
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