この広い世界の小さな陽だまりで
連載で書いていた「路地裏ガーデン、はたまたそこはパラダイス」を加筆修正したらタイトルがしっくりしなかったので、改題もして1作品にまとめた作品です。17,500文字、長いから目次付けてみました。
【1】
高くそびえる高層ビル群の谷間に埋もれるように
木造平屋の家が一軒建っていた。
平屋の並びには母屋があり、
テニスコートほどの広い庭が続いていた。
その広い庭に囲いはなく、草木が生い茂り
傍から見れば公園のように見えることだろう。
平屋の家と緑が鬱蒼としげる庭の一画だけを
見れば、小鳥のさえずりが聞こえてきそうな
のどかな田舎の景色が広がっていた。
しかし辺りの高層ビルの景色と重なりあうと
平屋の一画の時間だけが捻じ曲げられて
しまったような歪なコントラストを描いていた。
その平屋は無駄なことだと分かっていても、
あえて都会に留まることで、
時間に対して必死に抵抗しているようだった。
残された僅かな希望に優しく寄り添い、
いつかその希望が太陽の陽を受けて
輝く日を夢見て、最後の孤軍となっても
自らの存在を示そうと奮闘しているようだった。
その平屋の庭の中で、草木に頭を突っ込んでいる一人の老人がいた。
名前は間宮 林蔵といった。
とうに七十を超えているにもかかわらず、
足取りも軽やかに、庭の草木の手入れに勤しんでいた。ビルに囲まれているせいで、日の当たる時間が限られているその庭だが、林蔵が世話をする植物達は不思議と活き活きとしていた。
目の覚めるような赤いバラが咲き、朝顔の蔓は空へ向かって高く伸びている。ひまわりは大きな頭をぐんともたげ、小松菜やオクラの緑は濃く、多肉植物が鉢から溢れ、地面を這っていた。母屋の脇には大きな桜の木があり、梅や桑にドングリの木もあった。
朝の通勤ラッシュ時に駅から吐き出される灰色の服を着た通勤者達。
彼らは一様に虚ろな目をして、林蔵の庭を避けながら散り散りに高層ビルの中に吸い込まれていった。林蔵はそんな通勤者達を脇目に見ながら、
色褪せた野球帽を被り、帆布の前掛けをして
土と汗にまみれながら庭の中でせわしなく
働いていた。
林蔵は毎日の庭仕事の中で、
最近見かけるようになった一人の女が気になっていた。その女は灰色の服ではなく、うららかな春の日に、艶やかな桃色のワンピースを着て現れた。季節を鮮やかにまとった彼女の姿が
林蔵の目に飛び込んできて、心の春風が吹き抜けた。
彼女は地面がむき出しになった砂利や小石のある
林蔵の庭の中をわざわざ選んで歩いていた。
そしてビルの中に吸い込まれていく
駅からの通勤者達に逆らって、
彼らを掻き分けながら、
駅に向かって歩いて行くのだった。
彼女が歩いていく後ろ姿を見かければ、
林蔵は庭仕事の手を休め額の汗を拭っては、
笑みを浮かべて見送っていた。
【2】
黄色い太陽が頭の上でギラついていた夏の日。
林蔵は額の汗をぬぐいながら、天塩にかけて育てた庭の土をバケツの中に入れていた。そして平屋の向こうの母屋に運ぼうと重いバケツを両手に持ち上げた時だった。
世界が暗闇に落ち、
一瞬のうちに意識を失ってしまった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか、
「大丈夫ですか?」
どこからともなく聞こえてきた女の声で
林蔵の意識は戻った。
目をうっすらと開いてみると、
眉間にシワを寄せて
心配そうに見下ろす女の顔があった。
林蔵の庭を楽しげに通っていた女だった。
彼女は濡れたハンカチを
林蔵の額にあててくれていた。
それが桜沢 加美との出会いだった。
間近で見た加美の美しい瞳に、
林蔵は見とれてしまった。
加美は辺りに散らばっていた土を
バケツに集めながら、
「病院にはいきますか?」
と聞いてきたが、林蔵は断ると、
ふらつく頭をゆらしながら、
ゆっくり立ち上がった。
加美が土の入ったバケツを持ち上げて、
「このバケツ、この中に持って行けば良いのかな?」
と母屋に目配せしながら言うと、
「そんな事は、いいから」
林蔵は強い口調で即座に答えた。
加美はちょっとした親切のつもりだったが、
怒ったような林蔵の口調に驚いてしまい
バケツを手から落としてしまった。
林蔵のぶしつけな態度に
加美は腹立たしくもなり、
「小さな親切は大きなお世話だったのかしら、
こんな暑い日は無理しないでね」
加美はそう言って、
その場で一礼をすると、
振り返って駅の方に小走りに行ってしまった。
林蔵は思わず、
「ご、ごめんな。
そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
加美の歩き去っていく後ろ姿に
手を伸ばして声にしたものの、
その声は彼女に届かなかった。
額にあてられていた濡れたハンカチが
林蔵の手の中にあった。
母屋のドアの手前には
「立入禁止」の看板が立てかけてあった。
林蔵はその立入禁止の看板を前に、
「この母屋の中にある植物たちをどう説明したらいいのか。
育てている本人がよく分かってないものを、
他人が分かってもらえる訳もない。
初めて見た時は腰を抜かしたもんだしな」
そう言いながら看板をよけて、
母屋の扉に掛かっていた南京錠を外すと
林蔵はため息混じりに中に入っていった。
【3】
母屋の中には小さな植物が植えられたプランターが床一面に敷き詰められていた。
一見すると、
若葉を付けたような小さな植物だったが、
とても奇妙な芽をつけていた。
それは人の瞳のような芽で、
1つの芽株に1つの瞳があり、
上下にまつ毛もあり、
まばたきもしていた。
その不思議な植物の瞳は
一様にどんよりと曇り、
暗い部屋の中で
重たそうに垂れ込めていた。
林蔵が母屋のドアを開けると、
床一面の何百という瞳が
いっせいに林蔵の方に向いた。
どんよりとしていた瞳がしゅんと立ち上がり、
まるでご主人を待ちわびていた犬のような
喜びあふれる輝きに変わった。
林蔵は奇妙な植物たちに慣れた様子で、
両手を腰にあてながら部屋を見渡していた。
「これをどう説明して良いのやら」
ため息混じりにそう言った。
これら奇妙な植物は
林蔵の理解の及ばないところに存在していた。
そして林蔵も戸惑いながら10年以上に渡って育てていた。きっかけは、ある日この瞳のある植物を庭で見つけてしまった事だった。
【4】
それらは、
いや正確に言うなら、
最初は一株の瞳が
ある日ぽつりと林蔵の庭に現れたのだった。
手に取ると、
小さくつぶらな瞳が林蔵を見つめていた。
憐れむように見つめる瞳。
林蔵はその草を雑草のように投げ捨てることができなかった。
それは何処かで見た瞳だった。
その記憶は林蔵の人生の何処かで
大きな影を落としていた。
林蔵はその記憶の深海に潜んでいた瞳に
見つめられていた気がして、
見過ごすことができなかった。
この瞳を見捨ててしまったら、
深海に潜んでいる記憶を
永遠に失ってしまうと感じた。
その記憶を二度と手の届かない
暗闇に埋もれさせたくなく、
育てなければという衝動に駆られた。
育てる事で記憶を呼び戻し、
いつか見捨ててしまった何かを
取り戻せる気がした。
初めは一株だった奇妙な植物は増えていき、
やがては母屋いっぱいに
プランターが埋まってしまった。
どんなに育てても、
花もつけなければ、
実がなることもなく、
さしては枯れることもない。
ただただ増えていくばかりの
瞳を持ったこの奇妙な植物。
この母屋の中で10年以上育てているが、
暗闇に潜んでいる記憶には
たどり着いていなかった。
プランターに水を指していた
林蔵の手が止まった。
「ん、待てよ。
この虚ろな瞳をした植物をどうしたらいいのか
相談に乗ってくれるかもしれんな」
林蔵は水をやりながら、
桜沢 加美の事を考えているうちに、
唐突にそんな思いが頭をよぎった。
林蔵は誰かに母屋の秘密を
打ち明けたかったのかもしれない。
ふと出会った加美に林蔵は淡い期待を抱いた。
というよりも、
加美以外に林蔵の庭に関わっている人などいなかった。
林蔵は都会の孤島の庭に
長らく一人で暮らしていた。
今ここで林蔵の前に現れた
加美の存在が急に大きくなり始めていた。
倒れた時に見た彼女の美しい瞳。
青空の中に現れた女神のような加美の瞳が
林蔵の脳裏に焼き付いていた。
「もしかしたら、聞いてくれるかもしれんな」
林蔵はそう言うと、
再び手を動かしはじめ、
虚ろな瞳をした植物に水を差し、
土を盛っていった。
【5】
“彼女には、まずきちんと礼を言わんとな“
林蔵はそう思いながら、庭の手入れをしていた。
彼女が庭の小道をいつ通るものかと
気にしながら目を配っていたが、
林蔵が倒れたのを助けてもらって以来、
加美が庭に現れる事はなかった。
無表情な通勤者達が
オフィスビルに吸い込まれていくのを
横目に見る日々が過ぎて行くばかりだった。
通勤者達は季節の花の香りに
足を止めることもなく、
風が揺らす葉音に耳をくすぐられることもない。
ただひたすらに日々流れ行く時間に
掴まっていくだけで精一杯だった。
林蔵は彼らを不憫に思っていた。
そして彼らをこの場所に連れてきてしまったのは
自分のせいかもしれないと責任も感じていた。
この庭を手間暇かけて手入れをしているのは
林蔵なりの償いでもあった。
無機質で硬質のビルが立ち並ぶここら一帯でも
かつては人々が暮らす景色があり、
生活の匂いが溢れていた。
商店や学校があり、
家々の軒には洗濯物が掛けられ、
母親達は買い物かごを手に下げて
立ち話に花をさかせていた。
子どもたちが遊ぶ公園の傍のベンチでは
野良猫がうたた寝をし、
夕方になれば家々から
夕飯の匂いが立ちのぼり、
夜空には星が光っていた。
そう、ここら一帯でも、
夏の夜空に獅子が寝そべり、
冬の夜空に勇者オリオンが闊歩していた。
生活の息吹があった街だったが、
ビジネスの名の下に根絶やしにされてしまった。
街の発展にはビジネスが役に立ち、
幸せに一役買ってくれるものだと説得するのに
都合の良い媚薬だった。
そしてビジネスは蜜のように甘く
人々の心を誘惑し、
心地よく酔わせてくれるのだった。
そして辺り一帯の地主だった間宮 林蔵が
この地域の開発に大いに関わっていた。
ある日、
ビルの建設現場に林蔵が訪れた時だった。
ブルドーザーがなぎ倒していく
家と木々と緑を目の当たりにした。
ブルドーザーはその鋼鉄のシャベルで
この土地の上にあるものだけでなく、
土地の下に根付いていた
魂にも似た長年に渡って培われてきた
大切な何かを無造作に奪っていった。
林蔵は巨額の金と引き換えてしまった
代償の重みに耐えかねて
鎮痛な思いに駆られたが、
もう取り戻すことは叶わなかった。
そして最後に残された生家の売買の商談の時、
林蔵は契約書に印を押すことが
どうしても出来なかった。
今ここで残された小さな土地を守ったところで、
かつての街が戻ってはこない事は分かっていた。
ただあのブルドーザーの残響が
どうしても耳から離れなかった。
林蔵は地域の魂をビジネスの為に
根こそぎ奪ってしまい、
そして最後の最後にきてビジネスをも裏切り、
生家を売る契約に判は押さなかった。
林蔵は失ってしまった街を取り戻す事もできず、
新しいビジネスの世界に入る事も拒み、
どこにも行くべき場所を失ってしまった。
それでも良いと思った。
この残されたわずかな土地を
過去への償いにしようと決めた。
もう未来に期待できることはないかもしれないが、
林蔵にはそうする以外に自分の心に折り合いが付けられなかった。
以来、林蔵は長い間この残された土地の中で生活をしてきた。
それが10年ほど前に瞳のある奇妙な植物に出会い、
そしてつい先日には桜沢 加美が現れて、
この庭の小道を通り過ぎるようになった。
どこからともなく蝶がヒラリと庭の中に現れたかのように、
彼女は庭にやってきた。
これまでこの庭に立ち入ってきたのは
加美一人だけだったかもしれない。
そんな加美との関わりのきっかけを、
ぶしつけな言い方で断ち切ってしまったのを
林蔵は後悔していた。
だからこそ、
きちんと謝り、礼を言う事からやり直したかった。
林蔵は桜沢 加美が
もう一度この庭を通り過ぎるのを待った。
待ち遠しさを感じるままに1ヶ月が過ぎた。
林蔵は加美が再び庭に来てくれる
きっかけになればと思い、
母屋の入り口に立てていた
“立入禁止”の看板を下げた。
そして母屋の扉の南京錠も外し、
中を覗こうと思えば見えるほどに
扉を少しばかり開けておいた。
もう一度彼女と会うきっかけがほしいと
切に願うままに時は過ぎていき、
季節は秋も深まっていた。
【6】
桜沢 加美は6歳からバレエを始め、
中学に進むと友人達と自由に踊る楽しさを
ヒップホップに見つけ、
高校ではチアー部で全国1位となり、
大学ではアメリカにチアーで留学し、
卒業してからもプロのチアーとして活躍していた。
それでもどこか物足りなさを感じる中で、
ミュージカルの魅力に取り憑かれた。
ダンスだけではなく、
ダンスと歌でより力強く表現出来る舞台。
加美がこれまでにやってきたダンスの流れとして、
ミュージカルに行き着くのは必然だったのかもしれない。
加美は戸惑う事なく、
チアーの世界からミュージカルの世界へ飛び込んでいった。
ミュージカルアクターとして日本で走り出してまもなく、
いつしか本場アメリカでのミュージカルを夢見るようになっていた。
アメリカでの留学経験もあり、
英語という言葉の障壁はなかった。
夢を叶える場所が
日本から飛行機で13時間の場所にある。
掴みたい夢がこの空の向こうで
繋がっている事しか見えていなかった。
そして27歳の春、
仕事仲間でもあり親友でもあった
熊井 美咲とアメリカに渡った。
ニューヨークではタレント事務所に所属し、
それなりに仕事は舞い込んできた。
ミュージックビデオのダンサーだったり、
CMのダンサーだったり、
そしてオフ ブロードウェイでの
ダンサーポジションもこなしていたが、
手にできる仕事は全てダンサーだった。
仕事の合間にはボーカルレッスンも欠かさず、
美咲とはルームシャアをしながら
二人して励んでいたが、
ミュージカルとなると、
ダンサーでのポジションの仕事は手にできても
シンガーでのポジションは手にできなかった。
英語という障壁は無いと思っていたが、
それは外国語としての英語は充分でも、
舞台表現としての英語の歌唱力では
大きな障壁になっていたのかもしれない。
ダンスレッスンよりも
ボーカルレッスンを多くこなしながら
加美と美咲はニューヨークで
夢を手繰り寄せようと奮闘する毎日だった。
バイトにオーディションにレッスンにリハーサルと
神経をすり減らしながら明け暮れる毎日の中で、
ニューヨークのセントラルパークは
喧騒から逃れて呼吸を整えられるエアポケットのような場所になっていた。
天気の良い週末に加美と美咲は
セントラルパークをよく歩いていた。
トレーニングもかねて、アメリカンエルムの
優しい木陰のアーチのこぼれ陽の中をランニングし、
ナウムブルク バンドシェルのクラシックな
オープンステージで歌の練習もした。
シープメドー広場の芝は上質の絨毯のようにとても厚く、
ただ寝転ぶだけでも心地よかった。
二人にとってセントラルパークは
レッスンとオーディションで神経衰弱ぎりぎりの
毎日の生活から気持ちをゆるりと開放し、
優しく包み込んでくれるのだった。
冬のある日、
美咲と二人してセントラルパークで
ランニングをしている時だった。
何かがズドンと
足首に当たったような
衝撃を感じたと同時に激痛が走った。
「痛い」と悲鳴のように叫ぶと、
右足首から下に力が入らなく、
その場に崩れ落ちた。
右足がぶらぶらしており、
立ち上がれなく
加美は苦痛に耐える表情で
「やっちゃった」と言った。
美咲もその様子を見て、
アキレス腱が切れてしまったと分かった。
この時、
加美のアキレス腱が切れたのは
1本だけではなかった。
フィジカルなアキレス腱と一緒に
マインドのアキレス腱も切れてしまった。
フィジカルなアキレス腱はいずれ治ることだろうが、
もう一度気持ちを持ち直して、
立ち上がる自信は潰えてしまった。
加美は何処を見るわけでもなく、
座ったまま空を見つめていると、
何処かから飛んできた鷹が、
眼の前にあるニレ樹の枝に止まり、
加美の方を一直線に見つめていた。
鷹は何も語らず、ただ加美を見つめていた。
「頑張れ」とも言わず、
「もう良いよ」とも言わずに
ただ加美を見ているだけだった。
【7】
加美はニューヨークから3年ぶりに東京に戻る飛行機で
頭の中にジグソーパズルのように散らばった、
ニューヨークでの思い出を整理していた。
その3年という月日が長かったのか短かったのか分からないまま、
思いでのジグソーパズルは散らばったままで、
何も絵にならなければ、形も見えなかった。
そして成田に着いて入国ゲートを出た時、
久しぶりの日本の空気に気持ちが詰まりそうになってしまった。
3年前にここから旅立った自分を羨ましく思い返すと
自然と瞳に涙が溢れてきて、
何も前進できないままに帰ってきてしまった自分を悔しがった。
小学生の時からバレェを始め、
ヒップホップで踊りの楽しさを見つけ、
チアーでアメリカに渡り、
ブロードウェイ・ミュージカルを夢見た3年間。
夢見るままで諦めてしまった。
もちろん、
悔しい自分がいた。
しかし楽しかったダンスが
いつしか重荷にも感じていた。
それまで軽やかにステップを踏んでいたのに、
沼地に足を踏み入れてもがいていた。
そんな時にアキレス腱を切ってしまい、
疲れ果て、どこに行くわけでもなく
ただ漂っている自分に気がついた。
それは確かに挫折だった。
切れてしまったアキレス腱はじきにくっつくが、
夢見る気持ちをつなぎとめることは出来なかった。
ニューヨークから舞い戻ってきた12月の東京の空は
どんよりと曇り、凍った風が肌身に滲みた。
ニューヨークで一緒に励んでいた
美咲は東京には戻らなかった。
美咲はダンサーの傍らで
現地コーディネイターの仕事もしていた。
美咲は加美とニューヨークに来てみたものの、
そのレベルに圧倒され、
加美ほどにもダンサーの仕事に
ありつけなかったが、
交友関係が広がるうちに、
人の間に立つことで役に立つ
コーディネイターとしての
才能を発見したのだった。
そしてコーディネイターに本腰を入れようと、
一人ニューヨークに残り、
日本人アーティストが
ニューヨークに来た時の活動のサポートや、
その逆のアメリカ人アーティストが
日本滞在での活動もサポートしていた。
そして加美が東京に戻る時も
「大丈夫よ、
加美を一人で寂しい思いなんかさせないからね。
加美が東京に戻っても、
退屈させないお仕事探しとくね」
ヒースロー空港での別れ際に美咲は言っていた。
美咲の言葉どおり、
加美が東京に戻って1ヶ月も経たないうちに
メールが届いた。
「加美♡
久しぶりの東京はどう?
息苦しくてニューヨークに恋しくなってない?
まだまだ寒いけど、セントラルパークを歩くとね
加美とのいろんな思い出が見えてきちゃって、寂しくなるばかりよ。
それでね、
加美のことをサラッと紹介してみたの。
そしたら、すっごい引手あまたよ!
それでちょうど良さそうな話があるのよ。
今度お台場で新しいミュージカルの企画があって
ダンスインストラクターを探してるんだって。
北新宿の外れにあるスタジオで、
リハとかレッスンがはじまるの。
そのインストラクターやってみない?
ちょっとしたウォームアップにはいい仕事よ。
加美にとって、ダンスは酸素みたいなもの。
生きるためには絶対必要なのよ。
どんな形でもダンスを続けてね
NYで孤軍奮闘の美咲より
TKOの加美に元気を送ります!」
美咲の明るい笑顔が見えてくる文面だった。
そして彼女の優しさに、
加美の心は締め付けられる思いで涙が溢れた。
サラッと紹介してみたとか言いつつも、
加美の仕事を探すのに奔走してくれただろう事は分かっていた。
ミュージカルダンサーを挫折した人間の
雇い口などそうあるものではない。
ましてや舞台ダンス関係の仕事など、
キャリアもろくになく、
夢半ばで諦めてしまった人間を使うはずもない。
それなのに美咲は
ダンスインストラクターの仕事を
紹介してくれた。
それはどんな形であれ
私にダンスを続けてほしい美咲の気持ちだった。
美咲が届けてくれた元気な言葉が、
加美の胸に小さな明かりが灯った。
「ありがとう美咲、
嬉しくて涙の洪水が溢れちゃったよ。
その元気、ガッチリ受け止めちゃうわよ!
紹介してくれたプロデューサーの面接に
張り切って行ってくるわ」
【8】
安田 幸太郎はオフィスの窓際に立ち
外の景色に目をやっていた。
まだ寒い東京の街の景色の向こうに
梅の花を見つけると、
無意識に大きく深呼吸をしてみたものの、
甘酸っぱい梅の香りがする訳では無かった。
右手に持っていたエスプレッソを口に含んで、
左手の腕時計の時間を確認した。
2:55
その時、
安田のオフィスのドアをノックする音がした。
エスプレッソを机に置くと、
パチンと指を鳴らして
「ビンゴ」と小声で言ってから、
ドアまで向かって行った。
ドアの扉が開いて、
そこに立っていた安田の容姿を見て、
加美はハッとした。
深緑のタータンチェックのジャケットに
カーキのパンツ、
白いボタンダウンのシルクシャツに
細めの編み込みの赤いタイをきつく締めていた。
舞台プロデューサーにしては、
アイビーなルックスで、
加美のイメージとは違っていた。
「桜沢 加美さんだね」
安田はそう言うと加美をオフィスに招き入れた。
「飲み物はミネラルウォーター?
それともエスプレッソ?」
加美はミネラルウォーターをお願いすると、
デスクの前のテーブルに
向かいあって置いてあった
革張りのソファに促された。
「安田 幸太郎です。
今回の舞台のプロデュースを
任されています、よろしく」
と言って加美と握手をした。
「なんてことはないんですが、
今日はちょっとした確認程度の面談を
設定させてもらいました」
安田はそう言ってから、
「君はその最終チェックテストも合格したよ」
さらに話を続けた。
「ダンスの演出を任している
風間君からの提案でね、
もう一人インストラクターをお願いされて、
君が推薦されたんだよ。
彼の言う事にいちいち口は挟まない。
風間君とは方々で仕事している仲で
信頼もしているからね」
「その風間さんって、
もしかして風間 淳さんですか?」
加美がそう聞くと、
「そうだよ」と安田は軽く答えた。
風間 淳は日本で有名な振付師だったので、
当然加美も知っていた。
その風間さんが
見知らぬ自分を推してくれるなんて、
美咲は何をしたんだろうと
安田の話を聞きながら加美は考えていた。
「その風間君と僕とでね、
この日本から世界でも通用する舞台を発信して
いきたくてね、今回がその第一弾なんだ。
桜沢さんにはね、早速だけど、
来週からレッスンをお願いしたいんだ」
安田はそう言うと、
ミネラルウォーターのボトルの
キャップを外して一口飲んだ。
「えっ、来週ですか?」
加美は思わず聞き返した。
「何か、予定でもあったかな」
「いえ、予定は特に無いんですけど」
「都合悪い?」
「そうじゃなくて、」
「じゃぁ、なんだろう」
「えーと、今日の私は面談で来て、
大事な舞台のレッスンインストラクターは
分かるのですが、
肝心の風間様とは面識もないですし、、、、」
「会ったこともない君を風間君が
推してくれたのは不満かい?」
「いえいえ、この上ない光栄なんですけど、
私の技術力で大丈夫なのかと」
「ダンスのこと?」
「はい」
「おーダンスね」
安田は膝を叩いてそう言うと、
オフィスの部屋を見回してから
「ちょっと狭いけど、
ここで一つ披露してもらおうか。
今、このオフィスには二人しかいないし、
是非君の体の動きをしっかり見られるように、
セクシーに踊ってくれないかい」
安田はニヤけながら大きく笑った。
そして一拍おくと、
「こんな事をお願いするなんて、
なんとかハラスメントになっちゃうかな」
そう言って、
後ろのデスクに向かい
ノートPCのキーボードを叩いた。
「ちょっとこっちに来てくれるかい」
加美がPCを覗き込むと、動画が流れていた。
その動画とは、
加美のニューヨークでの
スクールレッスンの風景や
仕事としてこなしていた舞台や
加美が出演したミュージックビデオが
編集されたものだった。
「君の友達が風間君に送ってくれた動画だよ。
これで充分さ。何だったら
演者として来てくれてもいいくらいだけど、
メインのキャステイングはもう決まってしまっててね。」
振り向いた加美に、
安田は片目でウィンクをしてから、
「よろしく頼むよ」
と言った。
「美咲、、、そこまでやってくれていたんだ」
「その君の友達の美咲さん?
女の友情っていうのも素晴らしいね」
「彼女がね、風間君とここ2年ぐらいかな、
彼を通して何人かニューヨークの
ダンスレッスンに行っているんだけど、
全部彼女がサポートしてくれていたんだよ」
安田は加美の肩を軽く叩いた。
「これで納得してくれた?」
「はい、ありがとうございます。あと、、、」
「あと?」
「最初におっしゃっていた、
最終チェックテストってなんだったのですか」
「それね、」
安田はそう言うと左手にはめていた
腕時計を指さした。
「時間だよ」
「時間?」加美は首をかしげた。
「そう、時間。パンクチュアル!。
3時の約束だっただろ。
君は5分前にきちんとドアをノックしてくれた。
遅れなかった。それが最終チェック」
安田は端的に言ったが、
加美は眉をひそめていた。
そんな加美の表情を読み取って、
安田は話を続けた。
「人って、
時間に対して謙虚でなければいけない。
これ僕が大事にしていることなんです。
特に仕事となるとね。
自分だけの時間じゃなくて、
仕事を取り巻く人達との時間の関わる事だからね。
この部分を共有できないと
いい仕事ができないと思っているし、
何か仕事がうまく行かない時は
時間がルーズになっている。
それは仕事だけじゃなくて、
人生も同じだよ。
やるべきタイミングでやらないと、
人生がちぐはくしてきちゃうもんなんだ」
掴みどころが難しい安田の話しに、
加美は口をぽかんと開けて聞いていたが、
安田はコーヒを一口すすると、さらに話を続けた。
「人は誰でも1日24時間しかないんだよ。
僕がいくらお金を積み上げたとしてもね、
1秒たりとも君の時間を買って、
僕の1日を24時間1秒にできないんだ。
時は金以上なり!
僕は君に3時にここに来てほしいとお願いをした。
君の時間を3時から頂戴するわけだ。
だから僕は2時半からここで待っていた。
そして君は約束どおり、
3時までにここに来てくれた。
僕の時間と君の時間がぴったり合ったんだ。
それで分かったんだよ。君は時間を守れる人だって。
だから君とは仕事ができるってね」
「そういう意味だったんですね。
ありがとうございます」
加美は丁寧に頭を下げて答えた。
「レッスンをする時も、
きちんと時間を守ってほしい。
僕からのお願いはそれだけだよ」
安田はそう言って穏やかに微笑んだ。
「ところで、
ビレジャーズ スタジオは知っているかい?」
「北新宿ですよね、何度か使ったことあります」
「あそこで、来週からお願いね」
「よろしくお願いします」
加美は明るく答えた。
スタジオの名前を聞いて、ふと昔の自分を思い出した。
そのスタジオで加美はよくリハや練習をしていたのだった。
ダンスも自分も輝いていた思い出のスタジオだった。
【9】
加美は新宿駅から乗ったバスに揺られて
スタジオに行く途中、
懐かしい北新宿界隈を思い出していた。
ビレジャーズ スタジオは加美の馴染みのある
スタジオで、ハイタワーが建ち並ぶ西新宿とは
対象的に、十二社通り周辺の北新宿の界隈では、
庶民的な風が漂っていた。
肉屋や青果店などの商店が立ち並び、
道路角にはタバコ屋に大きな銭湯もあった。
そしてスタジオの裏にはテニスコートほどもある
大きな広場があった事も思い出した。
実際にはその広場は私有地で、
スタジオの閉塞感から逃れて、
塀もなく開け放たれたその広場で
流れゆく雲を眺めながめていたのを
懐かしく思い出していた。
日本に帰ってきて、
美咲が紹介してくれた初めての仕事が
馴染みあるビレジャー スタジオだった事は
何か不思議な運命の巡り合わせを感じていた。
「またビレジャー スタジオから
やり直しってことかしら」
そんな独り言がポツリとこぼれた。
そしてスタジオの最寄りのバス停を降りた時、
加美はそこに現れた街の景色の変わりように
戸惑ってしまった。
それは降りるバス停を間違えてしまったと
思うほどの変わりようだった。
商店街はなくなり、銭湯もなくなっていた。
そればかりでなく、
かつての街全体がなくなり、
目新しい高層ビルや
マンションが立ち並ぶ景色に入れ替わっていた。
そしてビレジャーズ スタジオも
見当たらなかった。
でも確かにあるはずだと、
スタジオの住所まで行ってみれば、
スタジオも一新され、
全く別の洗練された建物に生まれ変わっていた。
スタジオの向こうに目を移せば、
そこに広場もあった。
その広場だけは、かつての北新宿に
あったままの景色だった。
加美は思わず広場の方に
足をのばして歩いていった。
広場の端には木造の平屋の家もあり、
草むらの中では初老の男が帆布の前掛けをして
庭仕事に勤しんでいた。
この一画だけ、
まるで時間が止まってしまったようで
かつてと何も変わっていない場所だった。
庭仕事をしていた初老の男も昔のままだった。
年一つも取っていないような見栄えで、
色褪せた帆布の前掛けも昔のままだった。
あまりに変わってしまった街の様子と
まったく変らない広場を目の前にして、
加美は時間の感覚が揺すられるような
目眩を感じた。
スタジオには30分前に入った。
板張りの床があり、
壁一面が鏡になっており、
片隅には大きなサウンドシステム。
久しぶりのスタジオの雰囲気の空気が新鮮に肌をくすぐった。
アキレス腱を切ってしまってから、
しばらく離れていた場所だったが、
気持ちが弾んでいる自分に気がついた。
ダンススタジオは加美にとって
生活の一部なんだとつくづく思い、
そこに身を置く事で顔を洗ったように
気持ちがさっぱりした。
全面鏡の前で体と会話をしながら、
ゆっくりとストレッチをしていた。
右足のアキレス腱には、
まだ少し違和感があったが、
”もう大丈夫よ”
とアキレス腱が応えてくれたような気がした。
”うん、大丈夫”
鏡に映る自分に向かって頷いた。
【10】
「おはよう、おはよう、おはよう」
風間 淳がそう言いながら、
レッスンルーム入ってくるなり、
加美がいるのを確認すると、
背筋をピンと伸ばし、
リズム良い足取りで、
加美に向かって一直線に歩いていった。
加美は背後から、
そのイチオクターブ高い風間の声の響きに
ドキリとして振り向いた。
するとWEBや映像の中でしか見たことのない
憧れの人が、自分の目を見つめながら
ツカツカと足早に歩み寄ってくる
光景が目の中に飛び込んできて、
それまでストレッチで緩まっていた体の筋肉が
急に緊張をして心臓の鼓動も高まった。
風間 淳は加美の1メートル先に
ピタリと立ち止まると、
そこからさらに1歩踏み出して、
50センチばかり近づいた。
オーデトワレの風がふわりと加美を包み込んだ。
「風間です。桜沢 加美さんだね」
と言って右手を差し出した。
加美も
「はい。
はじめまして、よろしくお願いいたします」
と言って握手をした。
「聞いていると思うけど
熊井 美咲君からの紹介でね、
今回のレッスンをお願いさせてもらいました」
風間は両手を腰に当てて、
背筋を伸ばし、
テキパキとした口調で話し始めた。
「熊井君にはね、僕のNY遠征だったり、
仲間のレッスンのNYサポートなんかを
色々手伝ってもらったりしていてね、
それで彼女にNYからダンストレーナーを
連れてきてほしいとお願いしたら、
ピカイチのダンサーが東京にいるって
聞いたわけなんだ」
風間は右手の人差し指と親指を立てて、
ピストルを打つような仕草を加美に向けて、
「それで桜沢さんに白羽の矢が当たったって訳」
それからも風間がレッスンの内容を
まくしたてるように話す中、
ただ加美は聞いているばかりだったが、
聞いているだけでも夢見心地だった。
加美にとっては雲の上の人が、
同じ目線の中で自分と話している。
イマジネーションの世界の人が、
加美の世界に現れている。
それは夢以外の何ものでもなかった。
レッスンの内容と言えば、
25人の中から18人ほどに絞りこむとのことで、
演者たちのレベルを見ながら、
動きを整えるベーシックのダンスレッスンを
3ヶ月の間、月ー金の毎日2時間する中で、
18人を選考してほしいとのことだった。
その後はリハーサルで
実際の動きもつけていくので、
週3日程度でのレッスンを
6ヶ月、合計9ヶ月のレッスンという内容だった。
風間は説明を終えると、
「それじゃぁ、
よろしく、よろしく、よろしくね。
今度一度食事にでも」
と言うと180°振り返り
入ってきた時と同様に、
そそくさと一直線に歩いて
ダンスルームから出ていった。
とても短い時間だった。
一呼吸したかしないかの間だったかもしれない。
そこにはまだ風間 淳の香りが残っていた。
レッスンの時間は10時からだったが、
参加予定の25人中10時前に現れたのは
16人だった。
3分ほど遅れてルームに7人入ってきて、
さらに2分遅れて残りの2人が入ってきた。
“なるほどね。こういう所から始める訳ね”
加美はそう思うと、手を3回叩き、
それぞれにしていた演者達を
加美の方に気を向かせた。
「はい、今日から1ヶ月間、
ベーシックレッスンを担当します。
桜沢 加美と申します」
と言ってから、
「初めに言っておきたい事があります。
あなた達がどのように時間を使おうが
勝手ですけれど、
舞台の上ではあなた達全ての動きが
揃っていなくてはいけません。
誰かが先に動いても、
誰かが後から動いてもいけないのです。
そして音楽と踊りが重なり合うのです。
音楽と踊りが時間軸の中でシンクロすると
舞台も整います。
明日からのレッスンでは時間どおりに
始められるようにお願いします」
演者たちの目の色が引き締まるのを感じた。
レッスンルームに集まった25人の力のこもった
50の瞳が加美の方に向けられると、
圧倒されて、のけぞりそうになってしまった。
ここのいる25人のうち7人は
バックアップダンサーに振り落とされてしまう。
そこにあった50の瞳は
ついこないだまでの自分の瞳だった。
【11】
北新宿のビレジャーズ スタジオに
通い初めて1ヶ月ほど経ち、
春の訪れを感じさせる時期に
スタジオ近くの賃貸マンションに
加美は引っ越した。
ビレジャーズ スタジオの仕事が
いつまでも続く訳ではなかったし、
北新宿の街並みは
新しく変わってしまったけれど、
自分もまたこの街のように
新しい自分に着替えて、
踏み出してみようと思った。
加美が選んだ新しい部屋は
スタジオに行く途中で庭を通る神田川沿いの
低層マンションだった。
25人の演者達の真剣な眼差しを
受け止めながらの毎日のレッスンは
加味自身のダンスに対する
良い刺激になっていたが、
複雑な思いも様々な色を帯びて揺らいでいた。
加味自身は演者という立ち位置ではないのだが、
気がつくと彼らの中に
自分の瞳を重ね合わせてしまっていた。
ダンスへの思いが加美の中で
複雑な模様を描いていた。
ある夏の日のことだった。
いつものように庭を抜けて
スタジオに向かっていたが、
庭仕事に勤しむ男が見当たらず気になった。
辺りを見回してみると、
その男が母屋の前でうつ伏せに倒れてるのを見つけた。
加美は足早に駆けつけ、
ペットボトルの水をハンカチに湿らすと、
男の額にあてた。
「大丈夫ですか?」
加美が声をかけると、
男はうっすらと目を開けて
意識を取り戻した様子だった。
加美は辺りに散らばっていた土を
バケツに集めながら、
「このバケツはこの中にもっていけば
良いのかな?」
と母屋に目を向けて聞いた時だった。
男は怒鳴るように、
「いいから!」
という大きな声で、
母屋に行く足を静止させた。
驚きのあまり、加美はバケツを落としてしまった。
「小さな親切は大きなお世話だったのかしら、
こんな暑い日は無理しないでね」
加美はそう言って一礼をすると、
振り返ってそそくさと駅の方に歩き始めた。
それ以来、
加美は庭に近づかないようにしていた。
とても気に入っていた庭を通るスタジオまでのルートだったが、
回り道をして行くようにしていた。
庭を手入れしている男に
嫌悪感を抱いた訳ではなかった。
むしろ逆で、強い興味が湧いていた。
あの時に彼は強い口調で
母屋に入る事を拒んでいた。
庭の中を素通りしても
何も気にかけることは無かったのに、
母屋に入ろうとした時の男の強い怒鳴り声に、
手にしていたバケツを
落としてしまったほどだった。
加美はその庭というよりも
母屋に気持ちが強く引き寄せられていた。
立入禁止の札のドアの向こうには
何があるのかしら。
母屋の中が気になるあまり、
もう一度そこに行ってしまうと、
超えてはいけない一線を超えてしまう自分を想像して
あえて男の庭に近づくことを避けていた。
季節は冬の入り口となり、
ダンスレッスンも一段落ついた。
どの演者たちもお互いを鼓舞して、
ダンスの質も高まり、
25人のダンスが1つのダンスとして
纏まるようになった。
メインダンサーを選ぶよりも
バックアップダンサーを
選ぶことの方が難しかった。
リストを書いては消して、
消しては書いて、
何を見ても演者たちの姿が
瞼の裏に現れては消えていった。
その事を正直に風間に相談した。
「それはいい仕事をしてくれたね、
さすが美咲君が推薦してくれた
加美さんだけあるなぁ。
あとは僕の方で引き継ぐよ。
18人の枠は変えられないけど、
舞台は長丁場だし、
25人が入れ替わりでキャスティング
に入っても良いしね」
風間の思いやりに、
加美の肩の荷も降りた思いだった。
太陽が西に沈みオリオンの星々が
夜空を飾る肌寒い夜。
加美はマンションのベランダで
ワイングラスを手の中で転がしていた。
久しぶりに肩の力を抜いて
くつろいでいる日曜日の夜だった。
ベランダから見える向こうのビル群には
明かりが灯っている窓が目立っていた。
“週末のこんな時間まで働いている人もいるのね“
加美はそんな事を思いながら
視線を下の方にずらしてみると、
暗闇の中にぼんやりと青白い明かりが
漂っているところがあった。
街灯の明かりではない。
何か不確かな青白い明かりが
漂って動いているようだった。
「あそこの場所って、、、
あの庭がある辺りじゃないかしら。
あの母屋にはやっぱり何かあるのよ」
翌朝、ベーシックダンスのレッスンは
もう無かったが、
早い時間から加美はマンションの部屋を出た。
そしてスタジオに向かう途中にある
男の庭に向かって歩いていた。
【12】
何ヶ月ぶりに訪れた庭は、
手入れが行き届いていない様子だった。
いつも朝から庭仕事に勤しんでいた
男も見当たらなかった。
向こうに目をやれば、
鬱蒼とした草木に埋もれるように母屋はあった。
以前あった母屋の前の“立ち入り禁止”の札は
無くなっていた。
傍まで行ってみると、
母屋の扉も半分くらい開いていた。
あの男は母屋の中で
作業しているのかしらと思いながら、
加美は恐る恐る母屋に近寄って
耳を澄ませてみた。
作業をしているような
物音らしい音も中から聞こえず、
辺りには誰もいる気配がなかった。
加美はもう一歩踏み出して
母屋の扉を開いて覗いてみた。
中は薄暗く、
外の光に慣れた目ではよく見えなかった。
一度目をつむり、
暗さに慣れた目でもう一度部屋の中を見渡した。
床にはプランターが一面に並んでおり、
小さな若葉をつけた緑が不規則な列を作って
植えられていた。
加美は少し肩透かしを
くらったような気分になった。
昨夜の青白い光はここにある植物を育てる
ための光だったのだろうと思った。
そして母屋から出ようと振り向いた時、
背中に何かがのしかかるような重たい気配を感じ、
再び振り返って母屋の中に目を向けると、
鳥肌が立つようなざわめきが背筋に走った。
プランターに植えられている植物の2枚の
若葉の間から人の瞳のようなものが現れて、
無数の瞳が一斉に加美の方を見ていた。
加美はその光景に呆気にとられて、
足の力がぬけてしまい、
その場で座り込んだまま
無数の瞳と向かい合っていた。
初めて目にする瞳を持った植物に驚きながらも、
不思議に恐怖を感じることはなかった。
そしてその植物の瞳を見つめているうちに、
記憶の断片が走馬灯のようにまぶたに浮かび上がってきた。
過去に置き去りにしてきた記憶の断片が折り重なり、
ニューヨークのブロードウェーの景色に繋がった。
「いつかまた来てくれたらと願っていました、
ありがとうございます」
加美の後ろで声がした。
振り向けば、
間宮 林蔵が頭を下げて立っていた。
「この奇妙な植物なんですけど、
いつかあなたが母屋に入ろうとした時は
こんな部屋を覗かれてしまっては
びっくりさせてしまうと思って、、、、」
林蔵の話を遮るようにして、加美が話し始めた。
「すごく驚いてしまったけれど、
彼らに見つめられて分かったの。
もう置き去りにしないって。
そういう事なのよ、きっと」
林蔵はそれを聞いて、
眼の前が明るく開け、救われた心持ちになった。
安堵のあまり、深く呼吸をついた。
「この植物を育てるべきか悩みながら
一人で長い時間を過ごしてきたんです。
最初にこの瞳を見つけた時に、
どうしても手放すことができなく、
誰に相談出来るわけでもなく、ただ世話をしてきた」
「私も同じ気持ちになりました。
今この植物たちに見つめられて、
手放しちゃいけないって分かったの」
「それは何故だと思いますか?」
「自分では気づかなかった自分だからよ。
見てないふりをしても、自分は騙せないものね。
前に進むには自分の瞳に向き合わなくてはいけないのよ」
「そうかもしれませんね。
老いぼれともなると、頭が硬くなってしまうようです。
長い間、この瞳を正面から見ようとしなかった。
自分を誤魔化してやり過ごしているばかりだった。
それにあなたがこの庭に現れてくれて、
私の気持ちにも変化があったにも関わらず、
無下な態度で、あなたを遠ざけてしまった」
「ううん、いいの。
それでもまたいつかこの庭に来る事になったと思うわ。
私自身が気づく為にもこの瞳達に呼ばれるわね。
それが今日だったみたいだわ」
「それで、これからこの植物をどうすれば良いと思いますか」
林蔵は訊いた。
「この瞳達を開放するのよ。
この狭い母屋に隠しておく理由はないわ。
そしてあなたがこれまでしてきたように、
これからはこの植物を外で育てるのよ。
どんなに時間がかかっても、
そうやって過去の時間を今の時間に取り戻すの。
そこからでしか始められないわ。
過去と今が繋がった時に、この瞳たちは答えてくれると思うの。
私はそこで私に再び出会えると思うの。
あなたにも置いてきてしまった過去の瞳があるんでしょ?」
加美のその言葉を聞いて、林蔵の気持ちは強く突き動かされた。
-出来ることなら戻したい過去-
「すみません、私は間宮 林蔵と申しますが、
あなたのお名前は?」
「桜沢 加美です」
「ぶしつけなお願いですまないのだけれど、
この奇妙な瞳の植物を一緒に世話してくれませんか?」
「もちろん、是非ご一緒にお願いします。
この広い世界で迷子になっていた私が、
今こうして私に出会えたんだから。
私にしか育てられない大切な私に。
この植物達をこの狭い暗がりから出して、
太陽の元で育てましょう」
加美の瞳が微笑んでいた。
林蔵の目じりは熱くなり、
気持ちのどこかで長い間つかえていた栓が外れた瞬間だった。
そして陽だまりのようなぬくもりがじんわりと
体中に広がっていくのを心地よく感じた。
高くそびえる高層ビル群の谷間に埋もれるように
木造平屋の家が一軒建っていた。
そこにはテニスコートほどの庭もあり、
年も離れた男女が同じ帆布の前掛けをして庭仕事に励んでいた。
よく見れば、庭の方々に見慣れない瞳のような蕾がある植物達。
もしもあなたがそんな景色を見かけたら、
都会の中に現れた田園風景に奇妙な感覚を覚えるかもしれません。
何も思う事もなく通り過ぎてしまうかもしれませんし、
そもそも余計な景色などに目が向かないかもしれません。
けれど、
何か気持ちの中でひっかかる景色に出くわしてしまったら、
一度立ち止まって足元を見てみてください。
そこには忘れてきた過去達が、
もう一度あなたに見つめてほしくて
ひっそりと佇みながら、
あなたを待っているかもしれないから。
---おしまい---
このお話は雨崎葉さんの「路地裏の庭師」からの二次創作小説です。
雨崎さんはアイデアの引き出しが一杯あって、読み手の心くすぐって、
想像力を掻き立てられる掌編小説を沢山書いてくれています。