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小説|夏日影に消ゆる君 #13
十三、
灰色の空に打ち付ける白波、というのが冬の海の印象だが、太平洋は今日も快晴。青い空と海が広がっている。夏の空と違うのはやはり空模様だろうか。空の高いところにはすじ雲が薄い線を描いており、太陽も南側の低い位置で優しい光を放っていた。
木枯らしが冬枯れの庭を通り過ぎる。
庭掃除をしていた詩音は肌を刺すような冷たい風に肩をすくめた。
緩んだマフラーを結びなおして、それから空を見
小説|夏日影に消ゆる君 #12
十二、
雨の日みたいに暗い気持ちを炭酸で流し込んだ。
あのあと三階の特別展示室には何事もなかったかのように人々が戻り、夏休みの活気を取り戻した。
休憩スペースのソファーに深く凭れながらまたひと口、喉を通る炭酸の刺激がようやく自分の体を現実に戻してくれる。
床につけた足の感覚や手に持った缶ジュースの冷たさ、背もたれにこもった熱。それらに意識を向け、今ここにいるという感覚をひとつひ
小説|夏日影に消ゆる君 #11
十一、
湊少年を助手席に乗せ資料館へと向かう。
ため息を吐きそうになるのを何度も堪え、その都度咳払いでごまかしていたら、湊から風邪を疑われたのが先刻のこと。「どうせ冷房つけっぱなしで寝てたんでしょ!」とからかわれ、飴を渡された。
口の中でカランと音を立てるグレープ味の飴玉が、いくらか暗い気分を紛らわせてくれている。
「昨日は詩音くんのおかげでだいぶ課題が進んだ気がする」
湊
小説|夏日影に消ゆる君 #10
十、
「雨の音は集中力を高める効果がある。絶対」
湊少年が言った。
台風の中で突然自由研究のテーマが降ってきたそうだ。
「町遺産を作って観光客を呼ぼう?」
「そっちじゃない!」
ノートに散りばめられた文字の中からタイトルらしいものを読み上げたつもりだったが、どうやら違ったようだ。
「こっち! 自由研究(改)の方! あっでもタイトルはまだ未定。テーマと研究のきっかけのとこ見
小説|夏日影に消ゆる君 #9
九、
台風一過。
東雲の空には欠けた月とほんの少しの星が残っている。
立秋もまだ過ぎていないというのに、雲のない夜明けの空には秋の孤独のようなうら寂しさがあった。
裏山から見下ろす暗い海に少しずつ空の色が映り始めると、夜の終わりを見届けいくらか軽くなった詩音の心にも彩度が戻り始めた。しかし、凪いだ水面のごとく静かな空の寂寥の翳が、その淡い色彩の中で物悲しく滲んでいる。
琉
小説|夏日影に消ゆる君 #8
八、
三機の飛行機が西へ向かって飛んでいく。
雲ひとつない大空を誇らしげに飛んでいく。
近所の子供たちが飛行機を追いかけながら手を振ると、一機の飛行機がそれに応えるようにゆらゆらと羽根を上下に振った。
子供たちは大喜びで飛行機が空の彼方に消えて見えなくなるまで手を振っている。
風が、ふわりと香った。
雨風が雨戸を叩く音で目を覚ました。
昨夜遅く東海地方に上陸した台風は
小説|夏日影に消ゆる君 #7
七、
「決まったかえ?」
「決まんねぇ」
「宇宙なんかどうじゃ」
「それは去年やった」
「ほいたら恐竜」
「それは一昨年やった」
「カブトムシなんかどうじゃ」
「虫は嫌い」
「おおの……」
キッチンで昼食の野菜炒めを作りながら湊の自由研究テーマに頭を悩ませていた詩音は、少年の呻き声に気を取られて濃くなってしまった味付けを整えていた。
「コンクールの応募部門は全部で
小説|夏日影に消ゆる君 #6
六、
開いたままのノートパソコンとタブレットの画面は、とうにスリープモードに切り替わっていた。
居間で仕事をしていた詩音は、キーボードに両手を置いたままぼんやりと画面を見つめている。
今朝の抜け落ちた記憶について、思い出そうとすればするほど、掬い上げた水のように次々とこぼれ落ち、それどころかはっきりと覚えているはずの前後の記憶すら輪郭がぼやけ始めてしまう。
琉生は確かにいた。
小説|夏日影に消ゆる君 #5
五、
朝曇りに途切れて鳴くのは蝉の声。ではなく、目覚ましアラームだ。
もうかれこれ五回ほどスマートフォンのスヌーズ機能と戦っていながら、詩音は未だ身体を起き上がらせることができないでいる。
気圧の変化に弱い方ではないのだが、ここのところバタバタしていたせいで疲れが出ているのかも知れない。
今日は特に予定もない。徐々に沈んでゆく意識に抗うことができない。
(いかん、起きんと…
小説|夏日影に消ゆる君 #4
四、
草刈りを終え、湊と連絡先を交換した詩音は、家には帰らず、そのまま家主に教えてもらった品揃えの良いホームセンターと、安くて新鮮な野菜が買えるというスーパーに買い出しに出かけた。接近する台風に備えるためだ。
外はまだ明るいものの日没間近ということもあり人はまばらで、地元の人らしい何人かがいるだけだ。
詩音は近くの駐車場に車を停め、ビーチに降りてみることにした。
波打ち際か
小説|夏日影に消ゆる君 #3
三、
家に帰ってきた詩音は二時間ほど仮眠を取って家主の家に向かった。
元々来週のどこかでと予定していた草刈りが昨日、小笠原諸島沖での台風八号の発生により急遽変更となったのだ。
「悪いねぇ、引っ越しの疲れもまだ取れてないだろうに」
家主は小さな物置小屋から草刈り鎌を二丁取り出し詩音に手渡すと、もう一度小屋に戻りガチャガチャと音を立ててまた何かを探し始めた。
「後で小さな助っ人
小説|夏日影に消ゆる君 #2
二、
不思議な夢を見た。
帰らない誰かを待ち続けている、切なく悲しい夢。
この場所は──。
早朝、胸をぎゅっと締め付けられるような感覚で目を覚ました詩音は、暫くぼーっと天井を見つめたまま、たった今まで見ていた夢の内容を思い出していた。
夢の中の場所は恐らく昨日家主が教えてくれたあの場所。実際の風景よりも寂れて──いや、今よりずっと昔の風景と言った方が正しいだろうか。遠くに
小説|夏日影に消ゆる君 #1
一、
チリーンチリーン。
軒に吊るされた南部風鈴が、夏の風を受けて澄んだ音色を響かせていた。
「おやおや、前の住人が置いていかれたかな? 邪魔なら外して処分してやってくださいな」
縁側に面した障子をすべて開け放つと、心地の良い南風が家の中を吹き抜ける。
「夏にぴったりのえい音色やないですか。このまま置いちょきます」
「そうですか。それより阪本くん、随分と荷物が少ないんだね