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小説|夏日影に消ゆる君 #2
二、
不思議な夢を見た。
帰らない誰かを待ち続けている、切なく悲しい夢。
この場所は──。
早朝、胸をぎゅっと締め付けられるような感覚で目を覚ました詩音は、暫くぼーっと天井を見つめたまま、たった今まで見ていた夢の内容を思い出していた。
夢の中の場所は恐らく昨日家主が教えてくれたあの場所。実際の風景よりも寂れて──いや、今よりずっと昔の風景と言った方が正しいだろうか。遠くに見える港町は今よりも小さく、二隻の舟が浮かんでいるだけであった。
夢の中の景色と実際の風景が違うことはよくある話だが、波の音、風の匂い、気温までが妙にリアルで、本当にこんな時代があって、タイムスリップでもしてきたのではないかと思うほどだった。けれど、自分が誰を待っていたのか、相手がなぜ帰らないのか、肝心なことは思い出せずにいた。
(行ってみれば何か思い出すかもしれん)
言いようのない寂しさを引きずりながら布団から這い出ると、詩音は部屋着のまま外に向かった。
明け始めた東の空に太陽の姿はまだ見当たらず、見上げた空には夜の色が残っている。山の入り口から続く道は暗く、ほんの一瞬進むことを躊躇ったが、すでに少しずつ遠ざかり始めた夢の記憶を追いかけるように、詩音は山へと入っていった。
山の中はやはり真っ暗で、昨日と同じ道であるはずなのに幾分険しく感じられた。
詩音はスマートフォンのライトで足元を照らしながらゆっくりと山を登った。
緩い下り坂で息を整えながら先を進み、ススキの抜け道を通り抜けようとした刹那、ふわりと花の香でも焚いているかのようないい匂いに包まれた。
それは気のせいかと思うほどに短い時間だったが、ずっと離れていた誰かが漸く帰ってきたような愛しさを誘った。
「うわっ!」
匂いの正体を掴もうと周辺を見渡していた詩音は、あまりの驚きに声を上げた。
自分のすぐ近く、朽ちて倒れた木の幹に腰掛ける男の姿を見たからだ。海霧のせいで薄ぼんやりとした夜明けの空の下、誰もいないと思っていたところに突然人影を見たのだから驚くのも無理はない。人影の方は悠長なもので、少し驚いたような表情は見せたものの、詩音を見てふっと微笑みかけるのだった。
「す、すまんちや、人が居るらあて思わざったき」
正直まだ心臓はバクバクと音を立てていた。こんな時間にこんな場所にいる人間なんて、どう考えても危ないに決まっている。まともでないか人間でないかのどちらかしかない。自分のことは棚に上げてそんなことを考えていると、「いや、オレの方こそ驚かして悪かったな」と、男の方も素直に謝罪の言葉を口にした。男は眉を下げ、困ったような申し訳ないような表情を浮かべていたが、よく見ると恐ろしく整った顔をしていて、詩音はその端正な顔に思わず見入ってしまった。
「なんだ? 見惚れてんのか?」
「ちっ、違っ……!」
「気にすんな、男も女もみんなオレに見惚れんだ」
「違うち言いゆうろう!」
自惚れというよりも「今までそうだったのだからお前もそうなのだろう」という素直な感想を述べただけなのだが、真っ赤になって否定する詩音が可笑しくて、男は声を上げて笑った。
「そんなことより、こんな時間に何しにきたんだ?」
「それはこっちのセリフちや」
「オレは別に……ここからの景色が好きなんだよ。ほら、見てみろよ。これから少しずつ霧が晴れて、太陽が町を照らし始める」
見れば先程まで町を覆い尽くしていた霧は徐々に薄くなり始めており、この辺りに立ち込めていた薄霧はもうすっかり消えていた。東の空、岩の岬の向こうから太陽が昇る。海に立つ霧が太陽の輪郭を映し出すと、夜の気配を残していた空もその面影を消した。
「さて、オレぁそろそろ行くわ」
「え」
「じゃあな」
向きを変えた男からふわりといい匂いがした。ススキの抜け道で一瞬だけ鼻を掠めたあの匂いだ。
「ま、待っとうせ! おんし名前は?」
男が振り返る。
「和泉琉生」
「りゅうせい。俺は阪本詩音じゃ。また……また会えるかえ?」
「……あぁ、多分な」
琉生は口元だけで笑って見せたが、詩音にはほんの刹那、彼の表情に翳りが差したように思えた。
追いかけたい、ススキの中に消えていく彼の背中を見送りながら何故だかそんな風なことを思ったが、追いかけたところでどうしようというのか。詩音はその場に立ち尽くしたまま、この感情の意味を考えていた。
(夢の続き…みたいじゃ)
気が付けば海霧はすっかりと晴れていて、先刻まで霞がかっていた町も今でははっきりと視界に捉えることができる。
木々に射しそめる陽光に蝉たちが起き始め、新しい一日が始まる。
夢の内容はもうほとんど忘れてしまったけれど、胸に痞えていたうら寂しさを感じることはなくなっていた。