哲学者大和の展覧会から見る関西アート界の無能さ
癌- 生の本質構造と刹那的体験 -
哲学者大和の現代アート作家初個展
ギャラリー白 日本で初最先端の
「オムニアート」を実践する初の試み
さてこの文章を書いているのは、 2016年6月28日の正午です。
哲学者大和はギャラリーで接客をしている頃でしょうが、
私は今回の総括として、少し文章を書かせていただきたいと思います。
今回の哲学者大和の展覧会は、
企画、制作、展示まですべて哲学者大和によるものです。
私の多少の助言などはあったものの、
哲学者大和の初めての個展ということになります。
今回哲学者大和の初個展がギャラリー白という場所になったのは、
特に意味はありません、
ただ、今回哲学者大和には日本の腐ったアートシステムというものを、
実際に体験してほしいという私の考えから、
貸しギャラリーでの展覧会をあえて行いました。
《日本の腐った貸しギャラリーシステム》
ここで少し日本のギャラリーシステムについて言及しておく必要があります。
日本には大きく二つのギャラリーシステムが存在します、
一つはコマーシャルギャラリーで、もう一つはレンタルギャラリーです。
あえて日本のギャラリーシステムと言ったのは、
基本的に欧米ではレンタルギャラリーというものはありません。
レンタルギャラリーは日本独特のシステムなのですね。
そこでコマーシャルギャラリーとレンタルギャラリーの違いですが、
コマーシャルギャラリーはその名の通り、
実際に作家と何かしらの契約をして、
作家をコマーシャルし、マーケティングして、
作家の展覧会を企画、運営、販売して収益を上げるビジネスモデルです。
なので、作家とは同じ土俵で、アートマーケットで戦う戦友になります。
ではレンタルギャラリーとは、
その名の通り場所をレンタルするというビジネスモデルです。
通常1週間の会期で15万円程度のお金をレンタル料として徴収し、
それを収益源としているわけです。
さらに会場で作品が売却された場合は、
さらに30パーセント程ギャラリーに渡すことになります。
日本ではコマーシャルギャラリーの数よりも、
レンタルギャラリーが圧倒的に多いのが特徴で、
経営者としてはレンタルギャラリーが、
リスクが少ないという、 非常に明確な差があります。
都心部などでレンタルギャラリーなどをしている所は、
地主やビルのオーナーが多く、
ある種不動産活用の一環としてギャラリーをしている場合も多いです。
ギャラリーがあればビルのイメージもよくなりますからね。
どうして私がこの貸しギャラリーシステムに否定的かと言うと、
基本的には作家の事を考えていないギャラリーだからです。
コマーシャルギャラリーは、 ある種契約作家とは無理心中的な要素が強く、
とにかく作家の作品が売れる事が収益源ですので、
作家の価値を最大化させる事に必死です。
契約作家の作品が売れなければギャラリーにお金が入ってきませんから。
それに比べてレンタルギャラリーはどうでしょうか。
もうお分かりだと思いますが、
レンタルギャラリーは画商ではなく不動産業ですので、
作品が売れようが売れまいが関係ないのですね。
要は作家からお金を徴収するビジネスモデルですから。
実はレンタルギャラリーは作家の味方のように見えますが、
一番身近な最大の敵という事になります。
このシステム構造が日本のアート界隈を歪なものにしているのですが、
それは次のテーマで記述いたします。
《作家同士の内向き評価コミュニティ、来るのは作家ばかり》
今回哲学者大和にレンタルギャラリーでの展覧会を進めたのには、
このような日本の歪なアートコミュニティを実際に体験してほしい、
その様な思いからあえて初個展をレンタルギャラリーで行いました。
ではそのレンタルギャラリーに来るお客さんは、
どんな人が来ているのでしょうか、
皆さんは想像がつくでしょうか???
レンタルギャラリーに来るお客さんすなわち鑑賞者はそのほとんどが、
作家なのですねwww
まず一般のお客さんなんて来ませんし、コレクターもこないです。
ほぼ全員が何かしらの作家、アーティストです。
なぜ作家しか来ないのかというベースには、
この貸しギャラリーシステムがあるのです。
少し詳しく書きますと、 コマーシャルギャラリーにはコレクターが多く訪れます、
それはコマーシャルギャラリーが作品を販売する事で、
ビジネスモデルが成立しているからです。
ではレンタルギャラリーはというと、
作家からの場所のレンタル料が収入源です。
そこから考えると、 それぞれギャラリーとは名乗っていますが、
お客さんの層がコレクターと作家で全く違うのがわかりますよね。
それが結果来場する人間の層の違いに繋がります。
レンタルギャラリーのお客さんは作家だということですね。
この点を特に覚えてほしいのですが、
そこから次に記載する問題へと繋がってきます。
《作家が作家の物差しで作品を評価する糞な評価制度》
さてここまでレンタルギャラリーの問題点、
そして今回哲学者大和があえてレンタルギャラリーで展覧会をした理由、
そのような事を書いてきました。
次に問題になってくるのが作品の良し悪しを決める物差しです。
これはコマーシャルギャラリーとレンタルギャラリーでは全く違います。
なぜならコマーシャルギャラリーは作品の売買で成立しています。
すなわち売れなければ評価されないという市場原理、
もちろんそこには色々な要素が入ってきますが、
基本的にはマーケットがその作家の価値を決めています。
ですから非常に客観性があると言っておきます。
ではレンタルギャラリーはどうでしょうか、
作家がお客さんのレンタルギャラーでは、
作品をどのように評価しているのでしょうか???
疑問ですよねwww
これは実は簡単で、 来場している層を考えれば簡単にわかります。
すなわち作家が作家の評価をしているのですね。
これは私が日本で考えるアートの最悪な慣習です。
これは昔からの画壇や公募団体などでも同じ構造で、
たまたま何かしら権力を持った作家が、
自分の作家としての趣味趣向や思想で、
他人格である作家の作品を評価するという、
ある種「神の声」に近い評価基準の無い「評価」?
というか「評価」と呼べない「評価」が、
未だにそんな事がまかり通っています。
根本的に「作家性」と「評価性」は別次元なのですね。
一般的に言われている「作家」が、
しっかりとした「批評」や「評価」ができるわけがないのです。
実際「権威」をもった「作家」の「評価」を聞いていると、
もうトンチンカンな事を言っているのですねwww
作家が自分の作家としての価値観や道徳観、
また技巧や思想などで、他人の作品に何かを言説するというのは、
ただの押し付けとしか言いようがありません。
しかし今の日本、特に関西のアートシーンなどは、
その鶴の一声が「評価」になっているのが「現実」です。
特に関西は「具体美術協会」の影響が未だに大きくて笑えますwww
笑えるというのは、そんな単純な笑いではないのですね。
例えば僕は嶋本昭三をすごく尊敬しています。
尊敬しているからこそ嶋本昭三を一番に淘汰したいと思うわけです。
しかし、関西で「具体」にいつまでもぶら下がりたい人間とか、
「具体」に擦り寄っている人間ほど下品だと思う人間はいません。
権力を一番嫌っていたのが「具体」です、
その「具体」の「権威」で、その恩恵を受けようとしている人間は、
本当に「具体」への尊敬があるのか謎です。
ここまでギャラリーの構造や、
作家同士の評価制度への糞さを述べてきたわけですが、
今回の哲学者大和の展覧会にも触れていきたいと思います。
《現代アートを解っていないのは作家自身である》
今回哲学者大和の展覧会の初日に私も在廊していたのですが、
ほとんど来る人は作家の人なのですね。
そして今回の展覧会はインスタレーションになっているので、
その人たちの作品の鑑賞力を私は観ていたのですが、
まずインスタレーションの意味がまったく解っていないのですねwww
私が観た限り、 作品をしっかり観られている人は残念ながら一人もいませんでした。
もちろん作家さんが来ているので、 妙に材料のことやら、
こうやった方が面白くなるとか、 終始作家としての意見を言うわですよ。
それって展示を観ているのではなくて、
あなたの作家としての価値観を押し付けているだけなのです。
鑑賞者としての振る舞いや作法がまったく理解できていない。
そのような人たちが100パーセントでした。
そもそもそのような作家達は基本的なアートという意味を理解していない、
だから作家としての意見を、作家にぶつけるという、
とても怪奇な行動を行うわけです。
これは非常に日本のアートの病だと感じました。
実は一番のタブーですが、 アートが理解できていないのは、
それをアートだと言い張っている作家本人という事は、
ここに記述しておきます。
《癌- 生の本質構造と刹那的体験 -の感想》
今回の哲学者大和の展覧会は、
一言で「反省」というものへの帰結を得る事が可能です。
「反省」とは自らを省みる事です。
私は「命」というものと「反省」というものが、
同義的な意味を持つように思えます。
今回の展覧会で哲学者大和は、
「生」と「死」がある種同律している事に言及しています。
それは、簡単に言うと、
「生」というレイヤーと、 「死」というレイヤーが、
私たちの無意識下で重なっているとも言えます。
その無意識下で重なっている「レイヤー」の、
少しのヅレが「意識」として想起しているのではないでしょうか。
私たちの意識というものは、
その「生」と「死」の揺らぎのようなものの、
「差」にあると考える事ができます。 ではこの「差」とはなんでしょう、
それは古典的物理においては、
「時間」と「空間」と読み替える事ができます。
また逆説的に「人間」が「反省」を行う行為にとって、
大前提に必要なエレメントもまた、
「時間」と「空間」です。 私たち人間が「生きている」というときに、
ある種アプリオリに設定しているアーキテクチャーには、
必然的にその「時間」と「空間」というものが設定されています。
今回の展覧会の準備段階で哲学者大和は、
「癌」というテーマの捉え方を、 企画当初と制作プロセスでは変化させています。
まさに哲学者大和は、 この展覧会のプロセスで「死」に「生まれ」ている、
そう捉える事も可能です。 哲学者大和は、「時間」「空間」があったからこそ、
「反省」し、また違う自分を創造したのです。
これらのプロセスは数ヶ月という時間軸の中で起こった事ですが、
哲学者大和はこのプロセスが、
「人間」のその「刹那」に常に繰り返されていると言っています。
これはどういう事でしょうか、
それは細胞レベルでのミクロな環境では、
物理的には実際に起こっている現象ではあるのですが、
私たち人間はそのミクロで起こっている現象を、
「意識」として捉える事はできません。
哲学者大和の今回の展覧会は、
祭壇、棺桶、遺影などの「死」を想起させるものを多用しています、
またその想起を増大させるために、 今回の展覧会を、
自らの「告別式」としてプレゼンテーションしています。
今回の展覧会の場所は「大阪市北区」という、
高層ビルに囲まれ、「死」や「生」というものを極限に排除された、
「人工都市」です。
そんなコンクリートに囲われた環境では、
私たちは「死」を意識上に持ってくる事も、
もしかすると「生」という、生きている事すらも実感できない、
そんな環境に私たちは生きているのかもしれませんし、
今回の展覧会の場所は特にそういった要素が強い場所であります。
展覧会場では、 哲学者大和の棺桶、祭壇、遺影の向かいの壁に、
そっと遺影を模した鏡が置かれています。
一瞬哲学者大和のインスタレーションに引き込まれた後に、
ふっと振り帰りその鏡を見る事で、 自分の姿が遺影に模した鏡に映し出されます。
それはあたかもこの展覧会、告別式が貴方の為に開催された、
そのような幻想を思い起こさせます。
これは「生」と「死」が二重に同律していることを、
まじまじと目の前に露呈させてくれます。
またそれ以上に、 この展覧会が哲学者大和の表現である以上に、
来場してくださった人々一人一人に用意された「場」であると、
そう感じさせてくれます。
哲学者大和は自分の表現をどうしたいのか、
という自らの「独善的」な考え利己主義を超えて、
他人の気づきの力になる事の素晴らしさ利他主義という、
そのような境地に至ったのかもしれません。
こういったアートの姿勢は、
ユーザーエクスペリエンスを追求したアートとして、
とても面白い試みではないでしょうか。