以前ツイッターで落合陽一を批判したら、本人から魔法の世紀を読めと言われたので読んでみた。(フィクションとシミュレーションの芸術学)
かなり前にツイッターで、
僕が発言した、
「テクノロジーはスケールしないと意味がない」、
という発言に対して、
落合陽一が、
「魔法の世紀読めばぁ」、
って本人から言われてたのを思い出し、
落合陽一の魔法の世紀を読みましたwww
まぁ結論から言うと、
嫉妬、歪み、歪み、
などかなり拗らせている本であるということです。
まずこの本は、
「コンピューターサイエンス」の「文脈」から、
入っているのですがwww
根本的にこの本は「文脈性」を「否定」しています。
それ以前に、
「科学」「サイエンス」こそ、
「文脈性」の上でしか成り立ちません。
「近代」というのは、
つまり「科学」の時代であり、
「演繹性」の時代であり、
いわば「文脈」の時代であるのです。
この「文脈性の否定」と「科学の文脈性」の、
二律背反は一貫してこの本の矛盾を示しています。
落合陽一が研究者として研究している、
「実世界指向インターフェイス」も、
「科学の文脈」において有効な研究であるのは、
誰の目から観ても明らかです。
この様な落合陽一の姿勢からも理解できる通り、
落合陽一という人間は、
現実を受け止めず、
自分の都合のいい様に、
現実を歪曲するという、
「フィクション」を好むことが理解できます。
この様な前提の元、
落合陽一の「アート」の側面、
つまり「サイエンスアート」または、
「メディアアート」の部分について、
この「魔法の世紀」を考察していきます。
この本では一貫して、
「文脈性」を「否定」していますが、
また科学のコンテクストを言説した様に、
この本では「アートの文脈性」を言説しています。
例えばマルセル・デュシャンやらジャクソン・ポロック、
それらを例にアートの文脈性を語り、
バウハウスを引き合いに、
デザインを語るという、
かなり定型的でありステレオタイプな、
芸術や美術を言説しています。
さらに言うと、
芸術や美術の理解が非常に浅い、
と言うのは、
美術や芸術を専門にしている私からすると、
簡単に理解できます。
それは特に現代アートが、
「文脈性」のみに依拠していると、
思い込んでいる事からも理解できます。
そもそも「現代アート」は、
コンテクストを加味しているわけですが。
それはそもそも何が新しいのかという物差し、
それは人間のあらゆる活動や成長と同じで、
それはまさしく「科学」も同じ様に。
全ては「相対性」によってしか、
「定義」できないわけですから。
コンテクストを加味する事は、
現代アートだからではなく。
科学の他あらゆるものの定義が、
「文脈」を加味していると言えます。
そして現代アートの部分的エレメントとして、
「文脈」が存在している。
この本で落合陽一が言う、
現代アートは文脈性のみに依拠している、
「文脈のアート」であり「文脈のゲーム」と、
考えているのは明らかな間違いであり。
さらに言うと、
自分自身の「メディアアート」を肯定する為に、
現代アートをその様に扱う事で、
落合陽一が扱う「メディアアート」こそが、
「原理のアート」であると言う伏線にしか、
観えないし、
そもそも「アート全般」には、
所謂「造形原理」というものが存在しており、
それはある一定の「普遍性」を持っている。
つまり「現代アート」は「文脈」のみに依拠し、
「原理が無い」という言説は、
そもそも落合陽一の現実の歪曲であり、
「フィクション」なのである。
さらに落合陽一のアートの浅はかさは、
自らの「メディアアート」を「原理のアート」と、
呼んでいるのだが、
その「アートの原理」がそもそも、
間違っている事からも理解できる。
落合陽一が言うアートの原理は、
「感覚的な快不快」であると言っています。
その上で「心を動かす」、
「感覚に訴えかける」ことが勝負である。
「アートの原理」は「感動」、
これはなんとも幼稚すぎ笑えるのですが。
そもそも「感覚的な快不快」が、
「アートの原理」足り得るのであれば、
そもそも「アート」と言うものが必要ないのです。
それは「メディアアート」も同じですwww
例えば赤ちゃんは産まれてすぐ泣きだします、
そして快不快のみで生きているわけです。
つまり何が言えるのかというと、
感覚的な快不快がアートの原理足り得るのであれば、
アートというもの自体の存在は必要ない。
なぜならば生きるという事自体が、
「感覚的な快不快」そのものであるからです。
それは人間以外の生き物に共通します。
しかし、
「人間」が「人間たらしめる」ということは、
赤ちゃんが「感覚的な快不快」で、
泣いたり笑ったりする動物的側面では無く。
「人間」が「「人間たらしめる」ものは、
そういったものを「理性」でコントロールする。
そこに原理がある。
それが「人間」「人間たらしめる」という事なのです。
つまりここから理解できる事は、
「アート」とは「人間の業」であるのです。
つまり落合陽一が考える「原理のアート」、
それもまた現実の歪曲でありフィクションなのです。
そしてこの「サイエンス」の側面と、
「アート」の側面を横断的に捉えたか、
の様に観えてしまう、
落合陽一が提唱している。
「デジタルネイチャー」、
について考察していきます。
このデジタルネイチャーを簡単に要約すると、
デジタルとアナログの分別が無くなる。
その様な状態の事です。
もっと落合陽一的に言うと、
そのデバイスが無意識に入り、
モノとモノが直接的に、
計算機的相互関係を構築する。
つまりこれはどの様な事を言っているかと言うと、
環境、それはアーキテクチャが、
コンピューターサイエンスによって成される。
そういった世界を提唱しているわけです。
しかしこの世界もまた、
現実の歪曲によるフィクションなのです。
それは私たちの「世界の真理」を、
落合陽一は理解していないのです。
その落合陽一が完全に欠如している「真理」は、
私たちの世界がフィクションではなく、
シミュレーション世界であるという「真理」です。
ここまで言説してきた様に、
落合陽一は現実を歪曲しフィクションを創造しています。
この事は落合陽一が、
「文脈性」を捨て「絶対的創造性」へ回帰している。
その様な事からも理解できます。
ある種落合陽一の提起している事は、
芸術的に言えば「ルネサンス」と同じ、
「古典回帰」であるわけです。
つまり落合陽一は最先端な様で、
一番古い考えに戻ろうとする提起なのです。
それはまさにこの本の「魔法の世紀」という、
「魔法」という古い言葉のタイトルからも理解できます。
この古典回帰はキリスト教的「一神教」への回帰であり、
さらに言うと「絶対性」への「信仰」、
つまり「フィクション世界」への勧誘なのです。
この絶対性こそが、
様々な分野での「完全を追求」する素地になり、
その完全への「神秘性」へと繋がる。
この事は現在の日本の根幹的精神として、
あらゆる分野に残存しています。
例えば芸術分野で言えば、
美術や工芸におけるスペック信仰です。
このスペック信仰こそが、
絶対性を信じることの表層の現れなのです。
そして過去にも何度も言説していますが、
現在の日本経済の衰退の源泉である。
電機産業の特に携帯などにおける、
スペック主義を追求した末路としての、
業界の崩壊。
そしてアップルやアイフォーンの躍進。
私は全く虚構を言説しているのではありません。
現実を語っているわけです。
そしてこの現実というものそのものにも、
絶対性を観るのが落合陽一であり、
落合陽一が提唱するデジタルネイチャーであり、
それこそがフィクション世界と言われるものなのです。
落合陽一の提唱しているデジタルネイチャーにおいて、
一番問題であるのは、
絶対性を信じ、
虚構を信じ、
現実を信じていることです。
それが如実に理解できるのが、
デジタルネイチャーにおける、
コンピューターサイエンスという自然です。
落合陽一は世界の真理を、
0と1というデジタルに求めているわけです。
しかし世界の真理とは、
0と1、
そして0と1それが重なり重なり合っている状態、
これが真理なのです。
この事を生活レベルで言ってみると、
例えばコップというものが隣の部屋にあるのを知っています。
しかしまだそのコップがあるという認知はしていません。
この状態は有ると無いが重なっている状態です。
つまり0と1が重なっている状態になります。
そして隣の部屋にコップを確認しに行き、
そのコップを認知した時に、
コップが有るという状態になります。
それが例えば1の状態です。
そして認知できなければ、
コップは無いという状態になり、
それが0の状態になるわけです。
これが世界の真理なのです。
常に有るものは無いという事を内包し、
無いものは有るという事を内包している。
人間はその様な真理をベースにしなければ、
有るとも無いとも認識不可能なのです。
この様な事から何が理解できるのかというと、
落合陽一が提唱しているデジタルネイチャーは、
常にその自然は0か1の状態であるという事です。
それは誰も認知していない状態においても、
そのものは0か1を示しているという事です。
これはまさに世界の真理として、
不完全な自然であり、
デジタルネイチャーという提起自体が、
フィクション世界である事が理解でき、
ある意味人間の自己中心的で恣意的な、
創造物として理解できます。
つまりこの様な事から、
落合陽一は、
デジタルネイチャーにおいても、
現実を歪曲したフィクションであるのです。
現在の不安定な世界において、
「絶対性」を求める思想が回帰してくる。
そしてそれを人々が熱狂し賛美する。
これはルネサンスからも理解できる通り、
人々を求心するカルトになり得るのだと実感します。
しかしその「絶対性」はフィクションなのです。
それを前提としてそのフィクションが現実であると、
落合陽一が提起するのであれば。
それは不完全性定理を覆すものを発明しなければならない。
それは言うなれば、
それがそれ自体で絶対性を証明しなければならないという事であり、
それのみがデジタルネイチャーの信ぴょう性を担保するものであろう。
では現在において私たちは、
どの様にしてこの不完全性定理以後の世界を、
乗り越えてきているのだろうか。
それはまさにキリスト教的一神教を乗り越える事であり、
芸術や美術においては、
スペック主義を乗り越える事である。
それはまさに落合陽一が問題にしている。
マルセル・デュシャン以後の美術が、
その「絶対性」を乗り越えるファクターなのである。
また今回この様な言説を行う上で、
また落合陽一という人間を考察する上でも、
面白く、
いかに人間が弱く脆いのか、
だからこそ一神教同士の争いが、
まだまだなくならないのだ、
という現実を体験として理解するのである。
マルセル・デュシャン以降の美術というものは、
その「絶対性」の追求を停止した事が重要である。
そして「絶対性」を停止する、
つまり「唯一性」を停止させたのである。
これは例えば一神教的なイデア、
イデアからくるオリジナル。
その様な「唯一性」の停止なのである。
そしてそれらをメタ認知として捉えた時に、
この世界の唯一性の停止へと広がるのである。
つまり世界の認識がマルセル・デュシャン以降、
コペルニクス的転回が生じた。
それはこの世界が唯一の世界では無く、
複数存在する。
というよりも無数に存在する、
その中のたった一つの世界にすぎない、
という多重世界という認識である。
つまりこれは、
私たちは奇跡的なバランスで、
この宇宙に存在し世界があるのでは無く。
無数にある状態において、
その状態だからこそ生じた世界である。
だからこそ、
あらゆる状態に生じた世界は無数にあるのだ。
つまり私たちの世界そのものは生じているのであって、
存在そのものに絶対性は無く。
概念的にのみ存在しているのだ。
その概念的に存在しているとは、
例えば「点」という概念は、
数学的概念上にのみ存在し、
私たちは点という実態には辿り着かない。
その様に私たちの世界そのものが、
概念として生じているのであって、
私たちが現実として体験するものは、
つまり世界そのものが仮想である。
という事は世界そのものが概念であり、
仮想であるならば、
それは可能世界として無数に存在し、
その可能世界はまたさらに可能世界を生じさせる。
ある種のフラクタルとして、
あらゆる次元や領域において存在するのである。
また私たちも、
その可能世界の一つの世界に存在し、
その存在を体験する世界を現実と呼んでいる。
またその現実世界にも思考可能性を内在し、
その思考可能性において世界を生じさせている。
この様なシミュレーション世界こそ、
マルセル・デュシャン以後の、
「絶対性」に依拠しない、
不完全性定理を踏まえた世界の認識なのである。
そしてアートにその表層が生じたのは、
1917年のマルセル・デュシャンの「泉」から、
60年以上経った、
1980年代にシミュレーショニズムという、
美術運動が表面化する。
さらに日本にこのシミュレーショニズムが、
美術評論家の椹木野衣によって1991年に、
やっと伝わってくる。
(魔法の世紀を読んだ私の見立て)
おそらく落合陽一はデジタルネイチャーを、
シミュレーション世界の一つとして提起しているのであろう。
しかしアートの原理を感覚の快不快に求めた事は間違いである。
アートの原理は意識と無意識の二重の転倒にある。
つまり意識と無意識の関係性、
意識にあるもの、
無意識に埋没しているもの、
それをある種入れ替える事によって、
絶対的芸術体験は存在する。
そこから考察すると、
落合陽一はその様な絶対的芸術体験を、
体験した事がないのであろう。
これは同じ人間として、
またアートを志す人間としては、
致命的な事である。
さらにいうと、
絶対的芸術体験とは、
仏教での釈迦が体験した悟り、
そして愛の体験、
それらと同様の体験である。
これらの体験に共通するものは、
欠損の補い合いなのである。
それは意識と無意識の二重の転倒とも、
同様の現象である。
その様な絶対的体験をしていない、
落合陽一にはとても同情するのである。
美学者母
ここから先は
¥ 10,000
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?