美学者母が新型コロナは風邪だと言う原理(標本空間の現実とそれぞれの現実)2016年の日本の肺炎死亡者数が十一万九千人の事実

(引用URL)
国立感染症研究所
https://www.niid.go.jp/.../kansenno.../9303-coronavirus.html
東京都健康安全研究センター
http://www.tokyo-eiken.go.jp/sage/sage2018/
厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/.../jinkou/suikei16/dl/2016suikei.pdf
世界はなぜ風邪(新型コロナ)でパニックになったのか。
(インフォデミック時代の生き方)
https://machromatic.net/column_0370.html
コロナも新型コロナワクチンの接種が始まっていますが、
未だインフォデミックは収束していません。
もうこのまま新型コロナのインフォデミックが、
三年目に突入していくのだろうと色々と諦めていますが、
私は新型コロナはインフォデミックであると認識していますし、
現在の所その私の認識は間違っていなかったと考えています。
たまにSNSとかで医学の専門家や、
感染症の専門家が、
「新型コロナは風邪」は間違いだと発言を散見します。
確かに医学の専門家や感染症の専門家から言えば、
「新型コロナは風邪」は間違いという事が、
風邪という定義上当てはまらないということは理解できます。
なぜなら風邪という概念の定義を、
どの様にアウトラインをとるのかによって、
つまりそれぞれの前提条件によって、
「風邪」とか「風邪」でないとか、
つまりその領域の専門家にとっては、
あくまで「風邪」ではないのでしょう。
それはそのはずで、
風邪は症状を表すもので、
その症状を誘発する元のほとんどがウイルスの感染からのものです。
ちなみに、
その風邪のウイルスにコロナウイルスがあります。
これまで知られていたコロナウイルスは、
4種類のコロナウイルス(Human Coronavirus:HCoV)は、
HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1である。
風邪の10~15%(流行期35%)はこれら4種のコロナウイルスを原因とする。
そのほかに2種類の重症肺炎ウイルスがあります、
重症急性呼吸器症候群コロナウイルス(SARS-CoV)
中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS-CoV)
以上を参考に日常的に感染する4種類の風邪ウイルスとは違うと言われれば、
それはその通りでその様な切り口で言えば風邪ではないとも言えます。
しかし感染症であり、
また風邪と同じ症状を伴い、
人によってはその症状で治ることもあれば重症化する事もある。
またその様な症状が出る事がない人もいる。
風邪は「コロナウイルス」である、
そして新型「コロナウイルス」は風邪ではない。
「新型」をどの様な概念で捉えるのかで前提条件が違い、
コンテクストが変わってくるのが理解できます。
では前置きはこのくらいにして、
事実をベースに言説していきたいと思います。
まず注目するデータとして、
厚生労働省のデータの死因順位別死亡数の年次推移では、
2014年以降は肺炎が死因の3位になっており、
毎年10万人以上が肺炎で亡くなっています。
2014年から2016年のデータから理解できる通り、
新型コロナの流行前です。
ちなみに2020年の肺炎での死因は5位です。
そして死亡者数は8万人です。
新型コロナの流行で、
肺炎での死亡者は2万人減っているわけですね。
つまりここで理解ができるのは、
認知されるものと、認知されないもの、
意識が集中するものと、意識がされないもの、
つまり情報が人間をいかにコントロールし、
いかに現実を変化させるのかという事実が理解できます。
しかしその「現実」とは誰にとっての現実でしょうか。
少なくとも「我」にとっての「現実」ではありません。
それは言えば国家という実存を確認できない、
抽象的な存在にとっての「現実」でしょうか。
それとも「医学」という実存の確認できない、
抽象的な存在にとっての「現実」でしょうか、
はたまた統計学という実存を確認できない、
抽象的な存在にとっての「現実」でしょうか。
「我」にとっての「現実」と、
「標本空間」にとっての「現実」とは違うという事実です。
ここで少し確率論的な言説をします。
確率というものをどの様に認識するのか、
確率を「質」と捉えるのか「面積」と捉えるのか。
この前提条件で、
新型コロナを「風邪」と捉えるのか、
「風邪」とは違うと捉えるのかの違いが生まれます。
つまり簡単に言えば、
天気予報の降水確率をどう認識するのかに似ています。
例えば天気予報の降水確率をみなさんはどう認識しているでしょうか。
例えば降水確率20パーセントをどう捉えるでしょうか、
これは実は非常に難しい問題なのですが、
あえて「質」で捉えるならば、
ちょっと霧の様な雨が全体に降れば20%でも許容できる。
その様な「質」の捉え方もできます。
しかし基本的に確率とは面積と同じであるのです。
簡単に言えば、
任意の領域を設定した場合、
その20%の面積に雨が降る。
それが20%という確率です。
すなわち、
総体として20%という確率でも、
80%の人には雨が降らないという現実があり、
20%の人には雨が降るという現実が有るのです。
それを違った形で言えば、
その総体の80%の人には100%雨が降らない、
また20%の人には100%雨が降る。
つまりここから理解できるのは、
個別において、
誰かにとっては100%でも、
誰かにとっては0%である。
つまりここで、

標本空間を現実とする実在が、
そもそも存在しないことが理解できます。

もっと個別として捉えてみると、
それはその人々の個別的現実において、
雨が降るか降らないかは、
五分五分としての現実しか無いという事実です。
そしてこの確率論的な言説は、
「新型コロナ」にももれなく言えることであり、
もっと言えばあらゆる現象に言える「原理」である。
私たちは常に産まれてこのかた、
あらゆるリスクと共に生きて、
今この現実を生きているということを、
忘れ去っているのではないだろうか。
海に入れば溺れるリスク、
車に乗れば事故するリスク、
薬を服めば副作用のリスク、
山に登れば遭難するリスク、
何か食べればお腹を壊すリスク。
数えれば永遠に続くリスク、
まさに、
「生きるということは死ぬということを内包している」
ここで「リスク」というネガティヴな言い方をしているが、
それは「対」であり、
全ての事柄はその「対」を内包しているという「真理」である。
それはその「行為」「現象」に対する「対」である。
つまりここまでで何が言いたいのか。
それは個々の世界において、
「現実」は違うということである。
まさにこの瞬間に、
新型コロナの陽性反応がでた人もいるだろうし、
新型コロナが原因で死亡した人もいるだろう。
それはその当人にとって、
紛れもない現実であるが、
しかしそれ以上に、
それぞれの個々人が、
新型コロナ以外にも、
沢山の障害を持った現実があるのである。
またその理由で死んでいく人たちも多くいる。
自殺、病気、事故。
新型コロナとは違う理由で、
この刹那に苦しんでいる人々が多くいる。
社会では何の問題にもされていない事で、
認識されず、
意識されず、
悩み苦しみ、
死を選ぶ人たちが沢山いる。
2020年の自殺者は2万人。
それぞれの人間の個々において、
それぞれに、
新型コロナ以上のクライシスがあるのではないか。
ここまで考察してきた事は、
インターネットが普及した事を原理にしていると私は考えている。
情報の伝播速度の革命である。
ある所で起こった現実が瞬時にあらゆる所へと共有される。
そしてその共有された現実を、
「我の現実」としてその、
シミュレーション世界に没入するのである。
これはまさに人間の本質である。
それが私のアート作品として、
2010年に「ウェブアート宣言」として発表したものである。
この様な構造を原理から理解している私だから言える事として、
もっと目の前の現実を生きていくべきであると述べておきたい。
その考えを言い換えたものが、
「コロナは風邪である」という言説なのだ。
つまり、
「新型コロナ」というものは、
特別なクライシスではなく、
私達は個々人がそれぞれ様々なクライシスを、
日常的に乗り越えながら生きている事を、
そもそも忘れてしまっているのではないか。
その様な思いが伝われば幸いです。

僕にとっては20年くらい前に、
製薬や医学が薬を売るために、

「うつは風邪」

って言ってた方がよっぽど恐ろしい。


美学者母

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