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■カルチャーセンターという場

「文学」と「作家」への道(17)
「詩人の独り言」改

◇世に出るのは難しいね

10年以上前、2年ほど通ったカルチャーセンターの文章教室(小説、エッセー)の集まりに行った。文章教室の講師の先生は昨年亡くなり、コロナ禍が過ぎた今、1年をへて受講生で偲ぶ会をやる、というのを教えてくれる人がいて、参加した次第だ。
その文章教室は、8年前に僕が単身赴任で東京を離れるため、通えなくなった。当時は、小説を書きたい、小説家になりたい、との思いで通っていた。
しかし、東京を離れたのと同時に書き続けていたその小説も、他にも小説そのものも書けなくなった。
教室では短編、読み切りの小説を提出していたが、途中から「ジム・モリスンが現代の東京によみがえって芸能活動をする…」という内容の話を毎回何枚か書いて提出し、そこそこウケていて、先生もほめてくれていた(と思う)が、原稿用紙換算で250枚余で挫折。その後は、先述のとおり、小説家になる夢はフェードアウトした。

単身赴任を2年で終えて、東京に戻ってこの秋で8年になる。その間、退職勧奨を拒否したこともあり、社内では未経験の職場に出されたが2年前に定年。嘱託として3年目の契約更新直前に雇い止めとなった…。
一方、2年半前から詩を書くようになり、前とは違うカルチャーセンターに通い続けているのはこれまでも何度も書いて来たこと。

さて、この日の集まりーしのぶ会の話。
参加者は僕を含め10人。男は僕ともう一人90歳近い方。他の女性も40代が1人いるほかは、60-80代と年齢高めの集まりだった。
みなさん、互いの作品の内容、先生の言葉などをよく覚えておられて驚いた。
講師の先生は元文芸誌の編集者だったが、各地で同様の文章指導、小説教室をやっていたそうだが、他の教室も含めて地方の文学賞の入賞などはあってもメジャーな賞を取った人はいないだろう…という話だった。

通った2年ほどの記憶しかないのだが、みなさん書くことにそれぞれの思い入れ、世界観を持っていて、なかなか読みでのある小説やエッセーもあったと思う。それでもカルチャーセンターから世に出るというのは難しいのだ、と改めて思った。

現に、僕が今通うカルチャーセンターの現代詩実作講座でも、自分はかすりもしないし、他を見ても詩雑誌に入選する人はいるにはいるが、ごく少数である。

文芸に限らないが、カルチャーセンターはあくまで参加者の趣味、時間つぶしの場でしかないのか、という当たり前のことを感じたのだった。前に通ったところはちょうど昼過ぎに終わることもあって、参加者と先生がランチしたり、別日に飲み会をするなどの交流もあってよかった。今通うカルチャーセンターは、講義が終わると直帰するしかなく、書く者同士の交流がないのが残念だ。

久しぶりに会う人ばかりだったので、僕は名刺代わりに現在の状態を書いた「しようがない」をプリントして持って行き、みんなに配った。

そのA4の1枚紙の表は、石垣りんの詩「定年」を、裏面に自作詩をプリントしたのだった。
「noteに投稿しているので、よろしくね」と伝えたれど、読んでくれるだろうか。

「定年」 石垣りん

ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」

人間は黙っていた。
人間には人間のことばしかなかったから。

会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。

人間はつぶやいた。
「そんなこといって!
もう四十年も働いてきたんですよ」

人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。
会社が次にいうことばを知っていたから。

「あきらめるしかないな」
人間はボソボソつぶやいた。

たしかに はいった時から
相手は会社、だった。
人間なんていやしなかった。

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