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■戦争ほど重い体験はない

「詩集」を読んで 石原吉郎(5) 不定期刊

サンチョ・パンサの帰郷」 (思潮社、2016年3月刊)。

戦後シベリア抑留経験がある、石原吉郎(1915-77)が帰国後10年近くたつ1963年に出した詩集の復刻版である。図書館で借りて読んだ。

戦争体験のない人間がほとんどになってしまった令和の時代。
今月は太平洋戦争開戦80年ということもあって、NHKなどは関連の番組を再放送を含めてずいぶん放送している。僕がそれを探して録画して見ているからそう思っているだけかもしれない。民放はほとんど目につかなかったし、新聞も展開としては地味…というか紙の新聞は読まれてないし。

真珠湾攻撃に参加し、存命な元軍人がいて、NHKに出演していたほかいくつかの新聞にも載っていた。その方は103歳である…。他の人たちは戦後を生き抜いても、ほぼすべての人がこの世を去っただろう。

現代を生きる人間の中で、生の戦争体験を上回る極限の体験はないだろう。僕はそう思う。それを実際に聞くことは、僕自身も何度かそういう場に足を運んだが、簡単ではない。人によっては一切話さないし、自分の体験が何度も話すうちに真実とは離れたもの、他人の話とごっちゃになってしまうものなど、「お話」になってしまうことがままあるのだ。
戦場に行った、空襲に遭った…ということ以外にも、戦中戦後に過酷な体験をした人は多い。しかし、多くの人は書き残すことも語り継ぐこともしないままこの世から消えている。僕も生きていれば96歳、93歳の父母の存命中は戦争体験を聞き流すことのほうが多かった。
この石原の詩集も、8年もの抑留体験から材をとった詩はあるが、僕が思ったのとはちと違った印象を受けた。極限の経験をストレートにではなく、現代詩的手法で書いたものが多い。抑留者がシベリア鉄道に乗って運ばれる状況を描く「葬式列車」、作業場と収容所への行きかえりに隊列を組まされる意味を説く「位置」などが知られた作品だ。

「サンチョ・パンサ」はいうまでもなく、ドン・キホーテの従者である。短躯の大食漢で主人が持つ狂った理想主義とは対をなす、「実利的現実主義」の持ち主である。
石原は、自身をそれに重ねたのだろう。
大陸からの引揚者、抑留経験をへて生き残って帰国した人々は、多くの死者、帰れなかった人間への申し訳なさを抱えて戦後を生きた。
この詩集のタイトルがすべてを物語る

僕は、生死と隣り合わせの飢餓と仲間たちの姿を哀切に描く「ゆうやけぐるみのうた」や「お化けが出るとき」にひかれた。


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