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◇自分の「詩」

 

「文学」と「作家」への道(54)

詩を読み、書くようになったのは4年前の晩秋。
そのことについては、2年半前に「男たちの会話」
という詩に書いている。

2020年暮れから書き始めている、と明瞭に記憶しているわけではない。なんとなく4年たったか、という感じだ。
4年も書いている! いや、4年しかたっていない、というべきか。

先日、詩人・松下育男氏の詩の教室で同・峯沢典子氏との対談があった。
峯沢氏は50歳。2014年にH氏賞を受けており、現代詩手帖誌で投稿作品の選者も担当。詩歴はnote上の彼女自身のプロフィールに詳しい。

この席で、彼女は16歳から詩を書き綴り、短歌を学ぶなどいろいろと創意工夫してきた、という。
そのうえで、「作品の質を上げるには、自分の中の鬼編集長に『こういう詩でいいのか』と言われている」と話した。

なるほど…。書いては消し、消しては書き。時には、完成品を破り捨てる―そういう積み重ねもしてこその書き手なんだろう。

自分とは違うなあ。

峯沢氏の詩はそれほど読んでいないが、難解な言葉、表現は使わない人である。「中学生や高校生も入ってきてもらいたい」という言い方をされていた。

◇町谷さんにしか書けない詩

さて、この日の詩の教室は全6回の最終回であった。毎回、参加者が提出した詩を松下氏は丁寧に講評してくれ、そのプリントを紙でくれる。

今回、提出した僕の詩は先日アップした「カタマリ」である。
実際に見た夢から着想したもの。ここに書いたように、生々しく胸の上にそのカタマリの感覚が残ったものを詩にした。

松下氏は「実感のともなった、よい詩」と評していただいた(先生は概ねいいところを拾ってくれる)。
「町谷さんの詩は 今回の詩に限らず 自分が体験したことの違和感を そのまま詩にぶつけてかいている 無理やり想像しているのでなく 実感をもとに書いている」としたうえで、「町谷さんの詩は 町谷さんだけにしか書けない詩 そのことを忘れずに書いていってください」と励ましていただいた。

こんな詩しか書けないのか、とずっと思っているが、それでいいのだ、という気分である。

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