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◇西村賢太を越えたかった
「文学」と「作家」への道(57)
あの死から3年
日付が変わる前に、書き残そう。
きょう2月5日は、作家・西村賢太が亡くなって丸3年である。
三回忌は1年前になるが、もちろん取材(インタビュー)で1度、神保町で偶然1度会ったきりの僕にとって彼は、一ファンとして思い出すだけの存在である。原稿を書いてもらうという編集者の立場で長く付き合った人たちに比べると、まったく遠い存在だ。三回忌の集まりがあったとして、そこに参加するようなものではない。
しかし、僕が4年にわたって書きつづるこの場「note」において、3年前に書いた「■西村賢太が…死んだ」は、圧倒的に「読まれた記事」なのである。過去4年に書いた2243本の記事中でトップ、2位記事の2倍近いビュー数を誇る(笑)記事だ。
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作家としての彼、人間としての彼に興味と好意を持つと同時に、彼に関して書いた記事が読まれた、ということで改めて彼を偲びたい。そして、小説は書けず、日々書いている詩々もほとんど読まれていないという意味で、書き手として僕は西村賢太は遥に遠く、越えることはまったくできない。
今頃知った新事実
そんな西村賢太ファンを自任しながら、初期作品を除けば、この10年ほどに出たものは買ったままで読んでない本が何冊もある。亡くなってから出た本も手元にあるが、読んではいない。
おそらく、初期に書かれた「どうで死ぬ身の一踊り」「暗渠の宿」「二度はゆけぬ町の地図」などを読んだ際に覚えた、脳髄に金属バットを振るわれたような衝撃は受けないだろう。
芥川賞(2010年下半期)に輝いた「苦役列車」の時点で、すでに初期のインパクトは薄れていたから。
とはいえ、その作品と彼の行状、愛すべき人間性(エッセーやマスコミを通じて知る)を併せ考えても、あの年齢で亡くなったのは実に惜しかった、と思う。2月が近づく中、そう感じていた。
で、きょうの記事に上げた画像である。noteの先の僕の記事に反応した中に彼の元恋人だったという方がいた。そして、その彼女の書き込みで、昨年夏に月刊オピニオン誌「Hanada」に手記を寄せていたのを最近知った。
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買うことはない雑誌だが、新聞に載る広告は他の雑誌ともどもチェックしていたのに、見落としていたのだろう。図書館で当該記事をコピーして読んだ。
彼女の手記から作家・西村賢太の人柄が伝わり、その私生活は案外満たされていたものだと知った。改めてその死を悼みたい。