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存在だけで貢献している
アドラーは「他者への貢献感を持てることが幸福である」とし、哲学者の岸見一郎先生は「(生産性で人を見るのではなく)その人の存在がすでに他者に貢献している」と唱えていた。
まさに長年連れ添った夫婦というのは、存在=貢献なのかもしれない。
先週、父に電話をしたら元気がなかった。
聞くと「母を亡くしてから“そこにいない“と実感することに耐えられない」と言っていた。
一日家にいると、頭がおかくなりそうだ、と。
生前の母は、これまでずっと、酒好きの父に向かって「そんなにお酒飲んで、体悪くなっても、アタシは面倒は見ないからね」と言っていた。
そんな酒を一滴も飲まない母が、先に逝ってしまった。
父は最近お酒の量も減ったようだ。
失礼ながら、父と母を見て、二人の間に愛があるのか?疑問に思ったことが何十回もある。
しかし、そこには確実に愛があったようだ。
それを、母の死をもって初めて知った。
父は母のことを「お母さん」と呼ぶ。
「今までは、お母さんが“そこにいる“という安心感で一緒に暮らしていた。別に会話しなくてもね」
「それが今はもう、“そこにいない“、それが辛い」と。
母はその存在だけで、父に貢献していた。
晩年は体調を崩し、父が面倒を見る側になっていたが、生産性の話ではなく、
まさにこれが、存在=他者への貢献だったのだ。
父と母は、その存在だけで、お互いに貢献していた。
そして私は今、地元を離れ、東京で暮らしている。
それも「(会えないけれど、どこかで)元気に生きてる」というその存在だけで、私もまた、父に貢献しているのだろう。
存在=貢献である、と身をもって実感した。
だから、はっきり言える。
どんな人も、存在そのものが、他者へ貢献している。
自分が存在している事実だけに焦点を当てても、他者への貢献感を感じにくい。
しかし、これが幸福を感じる重要なカギとなる。
私、あなた、存在そのものが、貢献。
このことを忘れてはならない。
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