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オリンピック閉幕
昨日でオリンピックが終わった。
もちろん予定の話で、これが今年は実現しなかった。今や当然の結果と思えるが、オリンピックが延期なんて、これはまさかまさかの事態だ。
オリンピックにそこまで関心がない人も、延期までは予想してなかっただろうし、オリンピックに関心・関係がある人たちは、2020年に開催されないことを、想像していなかっただろう。
オリンピックは来年2021年には開催されるのだろうか。
それすらも怪しくなってきた。
今年のオリンピック開会の日に、こんなnoteを書いた。
ここでも触れたように、初日は悪天候で、このオリンピックは自然が開催するな、と言っているような気が私はしていたのだ。
岸見一郎先生著「嫌われる勇気」の中の言葉を思い出した。
アドラー心理学の「普通であることの勇気」だ。
何者でもない自分。
特別でない自分。
普通の自分。
それを受け入れる。
これは難しいということはわかっている。
(私自身、未だに葛藤があり、そこの戦いがあるからだ。)
でも前よりは少し知っている。
普通であることを受け入れる。これが、自分の幸せにつながる。
このオリンピック、なぜそこまでしても開催したいのだろうと疑問に思っていた。
強引な招致も違和感だったし、問題の潰し方も違和感だったし、問題の回避方法も違和感。すべてが私のようなイチ国民には違和感だった。
それなのに、どうしても開催したい首脳陣。
これって、何者でもない自分になれないんだな、となんとなく悟ってしまった。
2020年のオリンピックには自分がかかわったたんだ。
自分が動いたからこのオリンピックが開催できた。
自分たちで東京のオリンピックを作り上げた。
そんな、どんな形であれ、オリンピックに携わっただけで、その”肩書”がこの後永遠につく。
そんなことを意識でも無意識でも、望んだんだろな、と思った。
そして、そんな個人レベルではなく、仮に日本という国に、人格があるとしたら。日本が一人の人ならば。
オリンピックが欲しかったのだろう。何者でもないただの自分(=国)、特別ではないただの存在になれない、ということだったんだろう。
さすが生産性を追求している国だけあるわ(笑)
オリンピックは世界でも特別になるための材料だからね。
そうは言っても、国民との気持ちがここまで離れてしまった以上、日本という人格も、一度、世界の中で何者でない国になってみてはどうだろうか。
世界から期待されないということで、生まれることもあると思う。
ただの国、と思われたらしめたものだ。
まずは私たちの足元から、幸せを考えてみては?
オリンピックはそれに向かって備えてきた人々にとってはつらいかと思うが、要らないと改めて思う。
一度、何者でもない普通の国になってみてはどうだろうか。
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