脱・意識「が」低い系
世の中に浸透していない。。。
知っているのは意外と狭い範囲?
以前、『脱・意識「だけ」高い系』というnoteを書きました。
意識だけ高くても、実際に動かなくては全く意味がない。。。頭でっかちではなく「動くこと」がいかに重要なのか。
世の中ではオガール・ONOMICHI U2・Globe Sports Dome・INN THE PARK・タグボート大正などクリエイティブなプロジェクトも増えていますし、常総市・沼田市・津山市など「できること」を次々とプロジェクトとして顕在化しているまちもあります。
現在進行形で様々な可能性を模索し、これらの自治体を自分たちなりのやり方で追走する射水市・阿南市・徳島市・久米島町・福知山市なども現れてきています。
更に自分の中ではセミナー等でお会いしたり、ご相談をいただいている自治体の方々が、現在の標準的な自治体のマインド、立ち位置だと認識していました。
しかし、最近、いくつかの自治体に飛び込みで話を聞きに行ったり、民間事業者の方から自治体担当者とのリアルなやりとりを教えていただいたりするなかで、少し考え方に変化が生まれてきました。
「もしかして、自分のこれまで関わってきた自治体ってトップの10%くらいで、世の中はもっと広くて、思っている以上に情報が共有されていないかも。。。」
突撃訪問等での自治体の意見・考え方
正直、相当びっくりしています。(上記の意見はいくつかの自治体のものをメモとしてまとめたものの一部ですが、全く盛っていません)
プロとして失格だし、そのまちの市民の方は不幸だと思います。
また同時に感じたのは情報が正しく伝わっていないことです。
未だに公共施設の総量縮減=公共施設マネジメントと誤認していたり、プロジェクトベースで進めることの大切さが認識されていません。
情報の非対称性は以前にnoteのマガジンでまとめましたが、担当者本人の意識がこのような状況では、情報が行き渡るはずもありません。
意識「が」低い系
かなり存在?
意識「だけ」高い系の人たちは、確かに「情報」はよく知っていますが、自分で手を動かさない、結果を出していないにも関わらず「やった感を出すこと」が問題でした。
しかし、それ以上に大きな問題が、当の本人たちが全く問題意識を持たない『意識「が」低い系』の人・まちです。残念ながら、こうした『意識「が」低い系』の人・まちはかなりの割合で存在していそうです。
(あまりネガティブに捉えたくないですが、)もしかしたら全体の50%近くの自治体が『意識「が」低い系』なのかもしれないと思い始めています。
自分たちでなんとかしようとしないから、国が音頭を取ろうが、目の前の公共施設が悲鳴を上げていようが「どこ吹く風」になってしまい、まちが衰退しても「どうせ自分たちの力では。。。」と誰かのせい・社会のせいにしてしまっているのではないでしょうか。
諦めたらそこでおしまい
個人の力だけでまちの全てを変えていくことは困難でしょうし、実質的にそんなことはできないでしょう。ただ、少しでも抗うこと・どこかに爪痕を残すこと・うまくいけば少しでも、誰かにだけでもポジティブな効果をもたらすことはできるかもしれません。
安西先生の言葉を借りれば「諦めたらそこで試合終了ですよ」。
個人の、そしてそのまちの行政全体としての「意識が低い」だけで、意識が低いことに起因する「不作為」で市民を不幸にしてよいのでしょうか。
うちのまちには〇〇さんのような人はいない
『意識「が」低い系』の人たちの常套句は
です。
「〇〇さんのような人」はいるわけがないです。自分の知る限り、この世界で活躍されている方々は強烈に高いオリジナリティとマインド、そしてスキルを有しています。
そうした方々は、それぞれ周囲と連携しながら自分らしく試行錯誤してたなかで少しずつ成長し、現在があるわけです。
同じような道を通ることも経験することも物理的にできないので「〇〇さんのような人」は、そもそもありえません。もし「〇〇さんのような人」であれば、それは単なる劣化コピーでしかありません。
ひとりひとりがいろんなものを学びながら、そして自分たちなりに試行錯誤しながら成長していく、それしかないのです。
外界と遮断しているから
『意識「が」低い系』の共通項のひとつは、外界から遮断され役所(や会社)に閉じこもっていることです。
「市民の意見≒一部の窓口に来る声のでかい人、自分のやること≒上(国・市長等)から言われたこと、まちの課題≒報道されていることや議会の一般質問。。。」と、一人称ではないし、直接自分で見聞きしたものではありません。
ダメなまちは、財政が厳しいことを理由に(表向きは「ネット情報やオンライン講座が充実しているので無駄に外へ出る必要はない」と言いながら)、出張旅費やセミナー等の参加費、職員研修などの費用からカットしてしまいます。
職員に投資しないから、高いモチベーションやちょっとした経験(≠失敗)を許容しようとしないから、前例踏襲・事なかれ・縦割りに陥るのです。
まちにとって最大の資産・経営資源は職員です。職員がクリエイティブに、自発的に動かなければまちは元気になりません。暗い・ネガティブな人間・組織・まちにはそういう人が主流になってしまいますし、面白いプロジェクトは生まれません。
脱・意識「が」低い系
まちに出る
拙著「PPP/PFIに取り組むときに最初に読む本」でも何度も指摘していますが、まずはまちに出ること、自分のカネを散財してまちとつながることが第一歩です。
行政(や会社)も、職員(・社員)にはキチンと投資しましょう。
最初から広く「みんな」を対象にする必要はありません。「広く薄く」で職員研修等を実施しても「そんな話聞いたよね」で終わりますし、多人数で視察に行っても「楽しかったし凄かったよね」にしかなりません。
まずはキーマンになりうる人、モチベーションが高い人、プロジェクトを進めるために必要十分な人を中心として集中投資していきましょう。もちろん、その過程でこうした中核になる人と周囲の情報の非対称性を発生させては効果が半減します。
職員研修は広範に集めつつも、例えばまちみらいでもよく実施していますが、2部構成にして前半は幅広く講義形式で実施し、中核となる人たちには終了後に第2部として車座になって講師とディスカッションしていくなどの工夫も有効です。
また、「まちに出る」とは、自分のまちだけでなく日本各地を見てくることも含まれます。日本もいろいろと見て回れば文化・歴史・風土や空気感などまちごとに大きく異なります。こうした肌感覚を掴んでいくことで、自分のまちを客観的に見る目が養われてきます。
「正しく」学ぶ
コロナ禍になって以降、オンライン環境の急速な充実により様々なオンラインセミナーが開催されるようになりました。充実したものももちろんありますが、対面式が主だった頃と比較して内容には疑問符がつくものも残念ながら存在しています。
ダメなパターンのひとつは「情報が圧倒的に古い」ものです。もう担当を離れて何年も経っている人を講師に呼んでいたり、いまだに公共施設マネジメント≒短絡的な総量縮減を志向していたりするものです。
もうひとつは「情報がそもそも使えない」ものです。アホコンサルが国の資料をそのまま朗読したり、現場をやらない学識経験者が理想論・理論を「たぶんこうだろう」と長々と述べるものです。
ピュアな人たちは、特に国・自治体等の主催・後援等がついたセミナーであれば無垢にそこで得られた情報を「正」として、愚直に守ろうとしてしまいます。同時にミスリードさせるセミナー・講師等は相当に罪が深いわけです。
受講する人たちがまちに出たり手を動かしていれば、そうした情報が「役に立たない」「現代的でない」ことは直感的・に経験知で認識できますが、全国的にそうなっていないあたりがやはり「思った以上に情報が共有されていない」現実を表していると思います。
まちみらいでは個別の職員研修・セミナーや弊社独自に企画する上記のようなセミナーで、「現場重視・実践至上主義」をベースとして実際に関わってきた事例を中心として、常に情報をブラッシュアップしながら話しています。
また、業務で関わる自治体には時機に応じたゲスト(実践に特化した方)を選定・招聘し、そのまちのプロジェクトを進めたり課題解決に直結しうるように工夫しています。
このように「正しく学ぶ」ことは本当に重要なことです。
手を動かす
自分もよく職員研修・セミナー等で終了後にご挨拶に来ていただいた方に「こうした効果は3日しか持ちません。この3日間に何ができるか、どれだけ動けるかが勝負です。」と話しています。
実際に阿南市は、研修終了と同時に若手職員によるプロジェクトチームを組成し、手探りですぐに庁舎・科学センター等のトライアル・サウンディングやESCO事業の検討を始めています。
手を動かしていれば自ずと経験知が蓄積されてきますし、小さくとも少しずつ何かが変わっていくことによって充実感も生まれ、仲間も増えてきます。
こうした積み重ねによって自ずと個人はもちろんですが関係者の意識「も」高くなっていくはずです。隣町がやっていれば何か感じる人がいるでしょうし、周囲のまちがやっていればそれが普通のことになっていくでしょう。
『意識「が」低い系』の人・まちはこうしたなかで「あれっ?もしかして自分たち少数派で意識低い系?」と感じ、肩身の狭い思いをしていくか、考え方を変えて『脱・意識「が」低い系』になってくれるかもしれません。
できることをやる
そのためにも弊社がやれること・やらなければいけないことも多いですし、個人レベルで自治体の職員ができることも多いはずです。
『脱・意識「が」低い系』とは難しいことではなく、プロとして当たり前のことを個人・組織・まちとしてやっていく。それだけのことです。そうした当たり前のことが浸透してくれば、もっとオモロいプロジェクトが日本各地に創出されてくるでしょうし、結果的にまちが楽しくなるでしょうし、地域経済も回ってくるのではないでしょうか?