まどろみ、うたたね、夢をみる
【夢】ゆめ
1.睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。
2.将来実現させたいと思っている事柄。
3.現実からはなれた空想や楽しい考え。
4.心の迷い。
5.はかないこと。たよりにならないこと。
令和x年五月某日
東京都内某所某病院
五月病という言葉が存在するように、ゴールデンウィークのような長期休み明けは、精神に支障を来す患者が増える時期だ。
次から次へとやって来る患者を前に、一人の男は、ため息をついた。
顔を上げて、ガラスに映った自分の姿を見て驚く。白装束のような白衣を纏い、目の下には深いクマが刻まれている。顔色は青白く、まるで死人のようだった。ここの所、早朝から夜遅くまで診察を毎日繰り返していたからだろう。
さすがに休憩を取ろうと思い、医師たちの合間を縫って廊下を進み、空室の部屋に向かった。
壁も床もベッドも、全て白で埋め尽くされた精神科の特別仕様。少しでも色があるだけで、患者の精神にどんな影響を及ぼすかわからない。一パーセントの可能性すら切り捨てたような、極端なシンプル。
つい先日のことだ。この病室の患者が、フォークを喉に突き刺し、失血死で亡くなった。不幸中の幸いで、深夜の病室での出来事だったので目撃者はいなかった。なんでも、バクによる幻覚症状が悪化したのが原因らしい。噂を耳にした時は、死ぬためにフォークを首に向かって、勢いよく突き刺したのかと思っていた。しかし実際は、一種の儀式や祈りのように、何度も、何度も、喉や眼球だけでなく身体全体を、満遍なくフォークで蜂の巣にしていったのではないか、とも噂されていた。本当だとしたら、狂気の沙汰だ。その噂自体、誰かの誇張が混じっているかもしれない。どちらにせよ、患者が亡くなった事実に変わりない。ただ、事あるごとに、真っ白なシーツが吸い付くしたであろう血液や、脂肪の乗った肉片、死にかけで痙攣した人間、といった状況を想像してしまい、強烈なイメージが四六時中ついて回った。
曰く付きの病室に着くや否や、貴重なベッドで横になる。多忙極まりない時期の、至極優雅なひと時。洗い立てのパリッとしたシーツの肌触りは苦手だったが、医者となった今、人の気配を感じさせない安心感のある触り心地と思えるようになった。
一息ついて、人が寄り付く気配が無いことを確認すると、白衣のポケットからこっそり持ち出したレキソタンを一錠取り出し、嚥下した。そのまま、デパス、リーゼ、ソラナックス並べていく。ワインのテイスティングの準備をするように。今日はどんなコースにしようかと、一人心を弾ませていると、別の病棟に勤務する看護士が、いいものを見つけたといった様子で「お疲れ様です、先生」と意気揚々に現れた。
医師は諦めて、再びのため息と共に、「お疲れ」と返事をした。看護士はお構いなしといった様子で、医師の隣に座り、男二人が窮屈そうにベッドに並ぶ。
「お前はいつも俺の邪魔をするな」
「先生を一人にしておけないんですよ。別の誰かに狙われちゃうと、僕が嫌なもんで」
「妄想が過ぎるぞ、このヤンデレ看護士め」
「……ところで、先生のところの精神科は今日も忙しそうですね」
看護士は、まあ僕には関係ないですけど、と付け加えた。
「忙しいよ。ここ数年はずっと『バク』関連。今日もまた一人。ここまで来ると、噂や都市伝説の領域を超えて、流行り病だな」
愚痴を零すと同時に、医師はおもむろに看護士の髪を撫でる。そのまま指先で輪郭をなぞるようにして、腰骨のあたりを撫で回し始めた。
優しく、自分がそうされたいように。
他人に優しさを施す。医者という仕事に見返りを求めても、やりがいや承認を感じる瞬間は、ほんの一瞬だ。そのことに医師は三十代半ばで気付き、そして自分に『その気』が僅かにあることにも気付いた。厳密には、性的嗜好ではなく、ただ人から優しくされたいという純粋な欲求からであった。看護士は白衣の天使と呼ばれるだけあり、隣人愛の延長線で、彼の欲求に応じた。荒んだ医師の心を癒し、癒されたお礼に、医師が彼を癒す。こうして、少しずつ、お互いを求めあい、距離を縮め、ギブアンドテイクな関係に発展していった。
「ねえ先生。本当にいるんですかねぇ、『バク』なんて」
二人はもつれあうようにベッドで横になる。
「医療に限らず、ありとあらゆる技術分野が十分に発達した。にもかかわらず、このご時世に都市伝説が流行るなんて馬鹿馬鹿しい。付き合ってられん」
真っ白な空を仰ぎながら医師は話す。
「流行り病……新しい現代病なんですか……?となると、先生と僕の関係も……?」
「時代の変化で、パラダイムシフトが起きたと言ってくれ。まあ、同性愛嗜好なんて今時隠す事でもないしな………可愛らしい猫を撫でるのとそう大差ない」
「あら、つれないひと」と、天使は不満を漏らした。
対して、医師はコホンと咳払いをする。
「『バク』は完全な幻覚ではないのかもしれない。噂の力によって広がる精神の感染症のような……。人間の心の弱さを、俺たちが観測できないモノに突かれたのだろう」
「バクの研究ってあるんですかね」
「観測できない正体不明の妖怪研究をやりたいと思うか?民俗学と医学と社会学でチームを組んでも当日解散するぞ」
「ですよねぇ……ちなみに、先生は、何が原因だと思うんですか?」
「人類以外の繁栄、かな」
「僕たちの精神は、進化しないのに。目まぐるしい世界の変化についていけなくなった、ってところですかねえ」
「そうだ。心は変化するが、進化はしない。老化と共に摩耗していくだけで……なんて、休憩時間に考えたくない話題だな」
閑話休題と言って、医師は看護士の体を強く抱き締めた。その続きの言葉を敢えて口にせず、二人は沈黙を保った。看護士は医師の頭を撫で、彼の髪を近くで見ると、染めた茶髪に黒髪の地毛が混ざっていることに気付いた。ねえ、最近ぐっすり眠れているの?本当は先生の事が心配で、僕も最近眠れない日があるくらいなんです、と口にしようとして、ぐっと堪えた。彼は親密な関係を望んでいないと自らの理性に言い聞かせる。必要以上に追求しない方が、自分の為だ。無論、彼のためではない。自分が、傷つかない為である。そして、看護士は『自身はそういうキャラクターであるべきだ』と、自らに言い聞かせた。
「まあ、とりあえず!先生、今日もアレ、分けて下さいよ!精神科の、アレ……!」
看護士は気持ちを切り替えて、気丈に振る舞う。医師は彼の調子に合わせるように、笑顔で答える。
「あーはいはい、お前も懲りないな。まあ、俺もお前もこんなもんで胡麻化さないと、やっていけないんだけどさ」
男はベッドに広げた錠剤のシートをひとつ渡す。
「じゃ、今日も一日頑張りましょう!乾杯ってことで」
二人はそれをブラックコーヒーで流し込み、午後の仕事に取り掛かった。
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