眠りゆく者に敬礼を
今、GitHubにアップロードされた一枚のファイルをわたしは眺めている。
ソースコードを読むためではない。それを書いた男の記憶に触れ、その手触りを確かめるためだ。
聞く話によれば、彼のアカウントにはガラクタのようなプログラムもどきが散らばっているだけで、正常に動作するものは一つもない。彼がコンピューターサイエンスに関して天賦の才を持っているとは到底信じられないような、滅茶苦茶なコードばかりだという。それでも、大量に積み重なったコミットには彼の血が通っているように思えて、まるでそこに彼の実存を見出そうとするかのように、わたしはこのページに時折戻ってくる。
五年前の一二月のことだった。
株式会社enHackに勤めるエンジニア、天海章が突如行方不明になったという噂を知人づてに聞いたわたしは、早速会社にメールを送り、取材の打診をした。新聞社の事件記者であるわけでもなく、三文記事ばかりを量産しているフリーランスの記者ではあったが、いち早くひとの噂を嗅ぎつける能力には自信があった。警察もまだ動きはじめていないだろう。
とはいえ、大した事件にならないことは承知の上だった。音信不通になった人間が数日経って何事もなかったかのように現れる、なんていうのはよくある話だ。つまり今回も、わずかばかりの報酬を得るために、聞いて呆れるような駄文を書くことはすでに決定づけられている。それでも事件を追うことに決めたのは、ひとえに仕事に困っていたからにすぎない。
才能がないのならばフリーランスなどすぐにでも辞めて、どこか雇ってくれる企業を探したほうがよいのではないか。そんな意識がありながらも、まあいいか、となげうって深く考えないところがわたしの長所であり、同時に短所でもある。
「理屈っぽい男ですよ。ことエンジニアリングに関しては、天才的でしたけどね」
というのは、天海章の同僚のエンジニア、花谷昌弘の言である。パーカーにデニムを合わせ、無精髭を生やしたITベンチャー企業らしい風貌のこの男は、天海とは旧知の仲だという。
「しかし、天海のような極端な性格では、他愛ないコミュニケーションが難しくなるんです。不思議だと思いませんか?とりわけ日常会話では、論理的な人間に限って、上手く言葉のキャッチボールができなかったりする。普通の人間は会話中に強く論理を意識したりなんてしないし、理屈よりも感情が先行するんです」
花谷のよく通る声が、会議室に響いた。
株式会社enHackは、二〇二○年に設立されたソフトウェアの受託開発を専門とする企業だ。独自の受託開発方式や、エンジニアに天海を迎え入れたことでIT業界からは一目置かれているものの、一般的な認知度は高くない。広尾に居を構えるオフィスは想像よりもずっと小さく、わたしは虚を突かれた。今、机を挟んで真向かいに座っている花谷はehHack創業以来のメンバーであり、天海は彼の熱心な勧誘によりehHackに入社することになったのだという。
花谷によれば、この業界で天海の名を知らない者はいないらしい。しかしそれゆえに、妬みの対象にもなっているのだろう、というのがわたしの見解だった。邪推でなければだが、花谷の言葉からも当てつけのような非難の意図が感じられる。誤解を恐れずに言えば、天海は他人から好かれる人間ではなかったし、コミュニティに簡単に溶け込めるような類の人間でもなかった。彼がジョブホッパーとして小さな企業を転々としているのは、そういった理由もあったのではないだろうか。
「天海さんと連絡が取れなくなって三日が経つそうですが、心配はしないのですか?」
と、わたしは話の本題に入った。
「よくあることですから。彼は病気がちでね。明日にでも顔を見せるんじゃないですか」
花谷はMacBookのキーボードを叩きながら言った。
天海は無断で欠勤をすることも少なくなく、今回も例に漏れず会社にきていないだけ、ということらしい。
想像はしていたものの、そのありふれた理由に落胆した。仕事を休みがちな天才エンジニアの話など、記事になりはしない。しかし、せっかくここまでやって来たのだ。手ぶらで帰るわけにはいかない。
「彼にどこかおかしな様子は見られませんでしたか?たとえば、人間関係のもつれや、精神病の兆候など」
半ば意地になって、当てずっぽうな質問をぶつけてみた。
「もしかして、何か物騒なことが起きてるんじゃないかと疑ってます?残念ですが、それはないと思いますよ」
花谷はPCからわたしに目線を移し、呆れ顔で答えた。無理もない。彼にとってみれば、わたしは仕事の時間を無為に奪っているだけだ。諦めて帰ろう。そう思って席を立とうとしたとき、花谷が再び口を開いた。
「まあ、彼の仕事の質は最近極端に下がってきていますね。プログラミング、やったことあります?」
わたしが首を横に振ると、花谷はMacbookを開いて画面をこちらへ向けた。
画面に表示されているのは、どうやら何かのソースコードらしい。
「これは天海が投げたプルリクエスト、要は完成したコードをレビューしてほしい、というサインです。ちょうど先週、わたしがこのコードをレビューしていたのですが、ちょっとおかしい箇所がありましてね」
言いながら、花谷は画面に表示されたソースコードの一部を切り取って、テキストエディタに貼り付けた。
parent >= 2 && child >= 1
「このコードは、『親が2以上かつ子が1以上であるか』を評価する、とてもシンプルなロジックです。ただ、このプルリクエストにおいては誤った記述でした」
花谷は手元のエディタでコードを書き直し、再びわたしの方に画面を向けた。
parent < 2 && child < 1
「正しくはこうあるべきでした。これは『親が2未満かつ子が1未満であるか』を評価しています」
なるほど、これならコードを書いたことがないわたしでも理解できる。しかし、この程度なら単なるミスで済むのではないだろうか。特段取り立てて騒ぐほどの誤りだとは思えない。
「何がおかしいかって、普通のエンジニアならこんな初歩的な間違いは犯さないんですよ。ましてやあの天海が間違えるなんて、にわかには信じがたい。こんな間違いが、数回続きました。まあ、指摘するとすぐに修正してくれるので問題にはならなかったし、天海のブランド力を下げるような真似は弊社としても避けたい。だから大ごとにはしていませんが、不思議には感じましたね。今までにこんなことは一度としてありませんでしたから」
どうやらehHackが業界で注目されているのは天海の存在によるところが大きく、彼の評判が落ちれば会社の売り上げも下がりかねないため、公にはしたくないということらしい。
そのような理由があった上で、なぜわたしの取材を受け入れたのか、と訊いてみる。
「ああ、もちろん記事にするときは、天海の評判を上げるような内容にしてもらいますよ」
その言葉が冗談なのか本気なのかわからず、わたしは愛想笑いを浮かべた。
天海章、三十五歳。生まれは静岡県の川根本町で、民宿を営む父に育てられたと記録されている。彼は高校卒業と共に上京し、東京の大学でコンピューターサイエンスを学び、修士課程を修了したという。
enHackのオフィスを訪ねた翌朝、わたしはインターネットで天海について調べていた。名が知れていることも手伝って、彼に関する情報を集めることには難儀しなかった。
「天海章のルーツを探る」というタイトルのブログ記事が目に留まる。
リンクを踏むと、寂れた民宿の画像が表示された。天海を崇拝する者が、その出自を追うために生まれ故郷を訪れた際の一枚らしい。
ブラウザをスクロールし、読み進める。
天海は貧しい生まれだった。幼い頃、地元のスナックで働いていた母を酔っぱらった客による暴行事件で亡くし、それからは父の手一つで育てられた。彼がいつコンピュータサイエンスに目覚めたのか詳細な記録は残っていないが、才能を見抜いた父親があり金をはたいて彼を東京に送り出したことは確からしい。天海が東京でその才能を開花させると、民宿はある種の聖地として持て囃され、IT企業が行う開発合宿の場として使われるようにさえなった。
そんな話が、慎ましい文体で明らかにされている。
天海の生い立ちついて記述されたブログやカンファレンスへの登壇資料などが散見される一方で、彼自身による言葉が記録されているページはどこにも見当たらなかった。技術に関する話は必要に応じてするが、その他の話題に関しては口を慎む。彼のスタンスはそんなところであり、特出した技術力のみならず、その謎めいた雰囲気も彼のカリスマ性を高めた要因の一つなのかもしれない。
正直にいえば、わたしがこれほどまでに天海の一件に執着している理由を、自分自身でさえよく理解していなかった。他に手を付けるべき仕事もいくつかあったが、一日中彼のことが頭から離れずにいた。それは記者としての勘だったのかもしれず、あるいは、天海が姿を消した理由に何か隠された秘密があってほしい、という個人的な願望だったのかもしれない。いずれにせよ、この時すでにわたしの次の行動は決まっていた。わたしは衝動的にPCの蓋を閉じると、荷物をまとめて外に飛び出した。
静岡に訪れるのは子供の頃以来だった。東京からたったの三時間足らずでこれほど景観が変わるという事実には驚きを隠せない。
「どうぞ、靴を脱いであがってください」
突然の訪問にも関わらずわたしを快く迎え入れてくれた天海章の父、辰雄は、写真で見るよりも小柄な老人だった。
年齢は本人によれば六九歳。三十年以上もの間民宿を続け、一時は経営難にも陥ったが、ここ数年はかつてないほどに宿泊者が多く、息子には大変感謝しているという。
天海の父が案内してくれた部屋は、宿泊施設とは言いがたいような古い木造建築の一室で、畳の床からはい草と埃の混じった匂いがした。元は天海辰雄の父が持っていた家だったが、息子と二人で暮らすには持て余すほどの広さであり、それならばいっそのこと民宿にしてしまおう、ということだったらしい。
天海章の件に関してどこから話を切り出すべきか、わたしは決めかねていた。唐突に話しかけて、息子さんが失踪したのですが、と伝えるわけにもいくまい。様子を見るに、まだ天海辰雄は事件について知らないだろうし、こちらとしても余計な心配をさせるつもりはない。
寒空の下、縁側に座りながらどうしたものかと考えていると、天海辰雄がお茶を運んで来てくれた。
「静岡は茶葉の名産地ですからね、ごゆっくり」
そう言って立ち去ろうとする天海辰雄の背中を引き止める。
「息子さんのことについてお伺いしたいのですが」
わたしが気を揉んでいたことは杞憂に終わり、話はスムーズに進んでいった。
最初、天海辰雄はわたしが天海章のファンであると勘違いしていたようだった。しかしそれほどまでに、天海章を追ってこの民宿に足を運ぶエンジニアが多いということだ。
彼の話によれば、幼少期の天海章はごく普通の気弱な男の子だったという。生まれつき身体が弱く病気がちだったが、貧しい家庭だったため病院にも連れて行けずに苦労をしたらしい。天海辰雄が気がかりだったのは、そんな病弱な息子の将来だった。民宿を継いでもらうことを真っ先に考えたが、年々宿泊者が減っている中、いつまで続けられるのかもわからない。親戚の農家を手伝わせるという手もあったが、身体が弱いのでやっていけないだろう。そんな中、天海章が高校へ進学した年の春、とある夢を見たのだと天海辰雄は語る。
「夢にかみさんが出てきてね、久しぶりに会えたんで、俺は嬉しくて泣いたんだよ。そしたら、かみさんがこう言うのさ、章を東京に行かせて、コンピュータを学ばせてやれ、って。俺はその通りにしたよ。必死こいて働いてさ。だって、かみさんが言うんだもの」
夢は夢でしかないはずなのだが、こうして天海章が東京で成功している以上、まさに天啓のようなエピソードだといえる。
息子さんは最近帰ってきているのですか、と訊いたところで、天海辰雄は何かを思い出したように立ち上がり、しばらく待ってくれと言い残して部屋の中へ消えていった。
その間、SNSを開いて天海に関する新しい情報を探してみたが、目新しいものは見つからなかった。姿を消してからもう四日が経つにも関わらず、これだけ情報が出回らないところから、彼の孤独が垣間見える。その孤独が、生来の性格ゆえなのか、彼の優秀さに由来するものなのかはわからない。
天海辰雄がガラパゴスケータイを手に戻ってきた。
画面を見せてもらうと、一通のメールが表示されていた。お父さん、元気にしていますか。最近犬を飼い始めたので、写真を送ります。しばらく帰れませんが、お身体に気をつけて。という短い本文に続いて、黒い毛色をした雑種犬の写真が一枚添付されていた。
「一昨日、息子から送られてきたメールだよ。しばらく連絡をとっていなかったから嬉しかったんだが、少しばかり首をかしげるところがあってね」
そう言われて本文をもう一度読み返してみたが、一見すると普通のメールでしかなく、変わったところは特に見つからない。
「まず、章は特に意味もなくメールをよこしたりしないんだ。来週帰る、とか、そういった業務的な連絡はするが、近況報告など、これまでに送ってきたためしがない。それに、章は大の犬嫌いでね。四歳のころ、近所の犬に腕を噛まれて十四針ほど縫う怪我をしたことがあって、それ以来犬を毛嫌いしているのさ」
聞きながら、事件がきな臭さを帯びてきたような気がした。このメールは本当に天海章本人が送ったものだろうか。誰かが彼の身の安全を偽装するために送ったのではないか。そんな憶測が脳裏をよぎる。
すでに日が暮れていた。
わたしは天海辰雄にメールを転送してもらい、静岡を後にすることにした。アドレスの登録やメールの転送の方法を教えるのに苦労したことは言うまでもない。泊まっていかないのかと訊かれ、申し訳ない気持ちにはなったが、また来ると言って丁寧にお断りした。
帰りの新幹線の中で、花谷から名刺をもらったことを思い出し、彼にもメールを転送した。
「いやあ、すみませんね、突然呼び出してしまって」
開口一番、花谷は全く心のこもっていない謝罪でわたしを困惑させた。
「昨日、メールを送ってくれたでしょう?実は面白い発見をしましてね」
そう言いながらMacbookを立ち上げる彼の目の下には、ひどい隈ができている。
静岡を訪れた翌日、花谷からメールを受け取ったわたしは再びenHackのオフィスを訪れていた。 天海が失踪してから五日目、さすがに気がかりになってきたと花谷は言うが、お世辞にも心配しているようには見えない。むしろ、この状況を楽しんでいるようにさえ見える。
「見てくださいよ、この数字」
Macbookの準備ができると、花谷は興奮した様子でディスプレイに映った数字の羅列を指差しながら言った。
██.8█20123,2.█████67
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