食と韓国語・翻訳ノート12:말다(入れてほぐす)
『新版大京城案内』(1936)には、
餅飯、湯飯、五目飯はあまり飯に汁をかけて食はない内地人にはあまり向かない料理である。
と書いてあるけど、これは間違いだ。飯に汁をかけて食うのではなく、汁に飯をマラして食う(말아 먹다)のである。でもしょうがない面もある。この「マラ」する(写真)をうまくあらわせる日本語の動詞がないのだ。
わたしたちのお兄さん世代の人たちは、貧しかった学生時代、「ラーメンライス」というものを食べたという。食べ終わったラーメンのスープにごはんを入れて食うという、それ、その行為。それを何と言うか。「入れる」しかないのか。
日本人はごはんにみそ汁を「かける」。北条氏政も、ごはんに汁をかけるのがへたなせいで氏康に怒られたという。でも、これだと「プモク(부먹:부어 먹기:かけて食べる)」だ。マラではない。「湯漬けをもてい!」の湯漬け、茶漬けはどっちだろう。
ところで、わたしが韓国で日本語を教えているあいだに、祖国ではこんなことが起こっていた。
「チンチャそれな」は、韓国語で「本当」を意味する「チンチャ(진짜)」と、2010年代以降「そうそう」という意味で若年層を中心に使用されている「それな」が合わさった言葉
「やばいンデ」は、もはやすっかり市民権を得た若者言葉「やばい」と「〜なんだけど」という意味の韓国語「〜ンデ(ㄴ데)」の合成語だ。
こういうのを、稲川先生は「ある種の愛情を込めて「日韓ピジン」と呼んでいる」そうだ。わたしもそう呼ぼう。この日韓ピジンの古株みたいなのが「マラ」だという。確かにどこかで聞いた気がする。
在日コリアンコミュニティで使用されるいわゆる「在日語」では「汁にご飯などを入れる」という意味の「マルダ(말다)」の活用形である「マラ(말아)」を使った「ご飯マラして(汁に入れて)食べなさい」という構文が使われたり、…
ピジンが生まれるのにも理由がある。「マラする」を「入れる」と訳したときに、何か足らない気がするのだ。足らないのは、たぶんこれだ。韓国の辞書で「말다」を調べると、こういう意味になる。
1. 밥이나 국수 따위를 물이나 국물에 넣어서 풀다.
ごはんや麺などを、水やスープに入れて、풀다(解く、ほどく)。
「入れて」の後にくる「풀다」。これもまた、かなり文化的なキーワードといえる。からまっているものを「ほどく」、固まっているものをやわらかく「ほぐす」、人間関係の誤解やわだかまりを「解く」。日本の神主さんは、ケガレを「払う」けど、韓国のシャーマンは恨(ハン)を「解く」。日本の神様は結ぶのが好きで、韓国の神様はほどくのが好きだ。行事の二次会は「後ほどき(뒤풀이)」。お笑いの人が言う「緊張と緩和」、その「緩和」の感覚が、とても重要視される。すごく理屈っぽくてイデオロギーの強い社会だけど、同時に、その緊張を「解く」ことにこだわりのある社会でもある。マラする、というのは、ごはんをスープに「ほどく、解く」ことだという。スープにごはんを「泳がす」感じ。日本人はそれがきらいだ、と『大京城案内』は言う。でも、最近の韓国人を見ていると、かれらも昔ほどマラしなくなっている気がする。
朝鮮戦争の後、大邱で「タロクッパ(따로국밥)」というメニューが登場したが、これはスープにごはんを入れず、スープとごはんを別々に(タロ/따로)出すことからついた名だ。1980年代以降、もとからあったクッパ屋もこのやり方にならうようになり、今ではほとんどのクッパ屋でスープとごはんが別々に出てくる。(『食卓の上の韓国史』)
たしかに昔のおじさんたちは、テンジャンチゲ(みそチゲ)でもスンドゥブ(純豆腐)でも、料理が出てくるなりステンレスのごはん茶碗をひっくり返してドバンとぶっこむ人が多かった気がするけど、今はしない人が多いかもしれない。わたしもしない。「梨泰院クラス」のチャンガの会長(ユ・ジェミン)は、マラしてたか、してなかったか、思い出せない。
※「マラ」に下品な連想をした人は脳が昭和です。反省しましょう(わたしもしました)。