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わたしが夏を好きなわけ

今年の夏をひと言で表すなら、「轟音」。
色々なものを薙ぎ倒しながら、音を立てて猛スピードで走り去るような…
その音は耳を塞いだときに聞こえる血流の音にも似ているし、急行列車の通り過ぎる音にも似ている。

ところで、わたしが夏を好きなわけについてお話ししよう。
今まで、わたしが出会った人で好きな季節を夏と答えるのは、体感で1〜2割。

なぜ?
暑いのがいやだから。

これに尽きると思う。けれど、夏には暑さだけでない数々の魅力があるのだ。それに、暑さだって楽しむことができる。

例えば、こう。
きんきんに冷房の入った薄暗い喫茶店で、冷たいアイス珈琲を飲んで、窓の外を見る。あまりに外の世界が眩しすぎて、貴方はすぐに目を逸らしてしまう。そして、目の前にいる気のおけない人と、自分たちがいま灼熱に晒されていない幸運にほっとして、微笑み合う。
やがて珈琲を飲み干したら、喫茶店を出てすぐ、冷気がまだヴェールのように身体を覆っているうちに外を歩いて、まるでこの世に敵なんて無いような気持ちを味わう。
わたしは、そんな瞬間が好きだ。

また、遠くの音が聞こえるのは冬だけれど、身近な音がより印象的に聞こえるのは、夏ではないだろうか。
飲み物に入った氷の音、風鈴、花火の音(線香花火から打ち上げ花火まで)、プールではしゃぐ声……
冬が景色なら、夏は音でできているのだろう。これは、多くの人が夏を刹那的だと感じる原因の一つかもしれない。

それからわたしは、古いものが好きである。
夏というものは、植物の成長点のように常に青々としているのに、どこか古ぼけた感じがある。きっと夏の生気が隅々まで照らすので、いつもは見えなかった影や古さが、却って濃く際立つのだと思う。
近所にある築年数の古い家も、夏空の下では廃墟のように見えてどきりとした。
そんな日常に潜むノスタルジーを意識させてくれる季節として、夏は唯一無二なのである。
加えて、優柔不断なわたしは白黒はっきりした夏の空気に触れていると、一寸安心する。

大学時代、わたしが学んでいた19世紀末のフランス文学には、次のような特徴があった。

デカダン的な美意識とは、ひと言で言うなら「あべこべの美学」である。
(青柳いづみこ『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』東京書籍, 1997年, p.108)

聖と俗、生と死、永遠と一瞬などの対極にある要素は、世紀末デカダン(退廃)文学の主流なテーマです。わたしは四季のなかで、一見生命力に溢れた夏が、どの季節よりも世紀末的であるように思えてならない。20世紀を目前とした19世紀末と、秋をまもなく迎える夏は、どこか同じ性質を持っているのだろうか。

夏があまり好きでないという方は、ぜひ周りの音に耳を傾けてみてほしい。暑さがお好きでなければ、陽の沈んだ後に、カフェのテラス席で一度冷たいお酒か珈琲を飲んでみてはいかがだろう。できれば、貴方のもっとも心を許せる人と一緒に…

そのときまで毎年夏にかいでいたにおい、聞いていた音は、突然僕の五感を目覚めさせ、あの夏の出来事によって特別な意味を持つようになった。(アンドレ・アシマン『君の名前で僕を呼んで』マグノリアブックス, 2018年, p.17)

まだわたしは特別な夏というものを創作の世界だけの特権と思っているけれど、こうして夏を好きでいれば、いつか出会えるのではないかと、淡い期待をもって過ごしている。

…ちなみに、わたしは梅雨生まれなので、夏の晴れた日を恋しく思うのは生来の性質なのかもしれない。

それでは…
明日も良い天気であることを願って。

おやすみなさい。

#とは #夏 #コラム #フランス文学 #エッセイ


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