選択の意味とは
前回の振り返り
前回までは、行為を行うには、必ず覚悟とかエネルギーみたいなものが必要で、やる気とか、これはやるぞとか、そういう行為に対する心構えはどんな行為にも必要なものであって、それがやる気とかこれはやるぞとという心構えのような形で表出するかどうかはかかるエネルギーの大きさの問題だと考えた。
そうなると今度は、どう言った行為を選ぶのがいいのかとか、そもそも行為を選ばないということは悪いのかということを知りたくなる。
サボるってなんだ
人間はしばしば行為を選ばないという事があると思う。
例えば、宿題をやらないといけないとなった時に、めんどくさいと思う。
そこでスマホを取り出して、気がつくと1時間たっている。
この時、スマホで動画を見ることを選んでいるわけではない。
とにかくやりたくないから一旦スマホを見ているのだ。
他にも長い間、学校の課題などをサボっていたりとか、就活をサボっていたり、バイトをサボっていると、いざ就活やらバイトやらを始めようと思って、色々な作業をしていると、本当にそれでいいのか?それがやりたいことなのか?意味があるのか?しんどくないのか?と問うてくる声がある。
その声に従ってしまうと、スマホを片手に布団に潜り込んでしまって、暖かい布団っていいなぁと思うことになる。
この時にスマホや暖かい布団を選んでいるかというと別に選んではいない。
逃げるという言葉はあまり好きではないけど、この時少なくともこのバイトや就活や課題をやらないことによって、留年したり生活費に困ったり就職先がなくなるというデメリットが発生することを見ないふりをしている。
だから選択をしているんじゃなくて一旦選択を隠してしまって、見えないようにしている。
やると決めているわけでも、やらないと決めるわけでも、明日からやると決めているわけでもない。
こういった、選択を隠してしまって、見ないことにするようなことを「不選択」と呼びたいと思う。
僕たちがサボってしまうとか、スマホ見てしまうとか、受動的になってしまうとか、そういう状況に陥る時、かなり不選択の状態になっているような気がする。
不選択という状態
不選択とは、選択をしないことである。
不選択の本質的な問題としてデメリットを考えないという事がある。
布団の中でぬくぬくするのはものすごく楽で、極楽である。
でもまさに就活真っ只中や卒論真っ只中の時に布団でぬくぬくしていると、デメリットが明らかに生じる。
他にも、飲み会が終わって明日朝早いのに二次会に呼ばれるとしよう。その時に、明日のデメリットを忘れたくなってしまう。
二次会に行ったら明日起きれるかなとか不安になるんだけど、「一旦いいや、なんとかなるでしょ」とデメリット忘れてしまうことで、翌日寝坊したり地獄を見たりする。
この時、僕たちは二次会に行く選択をとっているけど、デメリットを考えていない。
つまり、行くということまでは選択できてもカラオケで歌っているうちに、終電の時間に切り上げるかとかそういうことを考える選択をしないで次の曲を入れていたりする。
この時不選択に陥っている。
選択とは何か
ここで選択についても少し定義づけたいと思う。
選択というのは、デメリットやメリットを考えてなんらかの行為を決定することとしたい。
二次会の例の場合は、最初は選択をできていると思う。
なぜなら、うわ明日早いなぁという二次会に行くデメリットを頭に思い浮かべられているからだ。
でも時間が0時を過ぎようとしたあたりで、もう考えるのをやめてしまっていて、1時を回ったことを確認した時にはもう何も考えていない。
3時くらいになって眠くなってきて、ちょっと帰ろうかなと思い出す。
この時も選択をできているんだけど、眠いというデメリットと楽しみたいというメリットを比べている。
多くの失敗に関して、不選択はデメリットを見ないことで起きている気がする。
見ないことにすることで起きる。
なので選択をする時に、デメリットとメリットを意識してみると、あ、じゃあ一旦30分だけ動画をみようというふうにする事ができたりする。
この法則でいくと、明日から頑張るというのは立派な選択だということになる。
明日から頑張ると人は思うわけだが、なんで明日から頑張ろうと思うのだろう。
それはやっぱり、人間が選択をする時に何を重視するかが関係しているだろう。
不選択の特徴でもあり、人間が選択をするときにかなり大きなウェイトを占めて考えることに、エネルギーを使うかどうかがある。
いわば、楽かどうかである。
明日から頑張るという場合には、実際に今日から頑張れないわけではなくて、頑張るということが楽じゃなくて面倒だから、明日に先送りしている。
楽とは何か
楽とは何かをもう少し説明したい。
楽というのは、僕は本当にエネルギーの問題だと思っているし、エネルギーが少ないというだけで選択肢の一つになっていると思う。
例えば、楽というのと極楽というのは違う。
温泉に入って感じるのは極楽だけど、温泉に入るまでとか温泉から出て色々準備するのは人によっては、特に髪の長い女性なんかにとっては楽ではない。
だから風呂キャンセル界隈があるのだと思う。
マッサージしてもらうのなんかも極楽だけど、してもらいながらめちゃくちゃ話しかけられるのは楽ではない。
極楽というのはこういうのを見てみると感覚的に気持ちがいいことではないかと思う。
そしてそれは楽であるかとは分けられる。
他に楽というのは今ある状態から離れる時に感じるんじゃないかとも思ったけど、ではガチのランニングをしていて、その状態から歩く状態に移行する時、当たり前だけど歩く方が楽である。
でも元の状態が楽なら、歩くよりランニングのほうが楽になってしまう。
でももちろん、ランニングが気持ちよくなってくると、ランニングは寝ることや歩くことに比べて楽ではないけど気持ちの良いものにはなる。
他に仕事で変更があった時も多くの場合、デジタル的な何かを導入して作業が楽になるのにも関わらず、今の方が楽だと思ってしまう事がある。
それは、今の仕事に慣れてしまって今の仕事で使うエネルギーが新しく覚えるというエネルギーよりも少ないからだ。
実際新しく導入したものに慣れてしまえば、エネルギーは少なくなるので、昭和の人は、パソコンや計算機のなかった昔と今を比べて今の方が楽だよねぇと言ったりするのに、新しい技術を取り入れるのは大変だと思ったりするのだ。
楽な気持ちと嫌な気持ちは同時に存在もできる。
例えば、引っ越しをしないといけないとなった時に、別に今の家に不満がなければ引っ越しは面倒なだけだ。
でも、めちゃくちゃ汚くて、狭くてうるさい家だったとしたら、今の家から早く引っ越したいと思うはずだ。
でも引っ越し自体は楽ではない。
なので、引っ越さない方が楽だけど、嫌だという状態が起きる。
この時は楽じゃないけどそのままいるのは嫌だから、引っ越すというのが正当化されたりする。
不選択と楽は親和性が高い
不選択と楽の関係は、非常によくて、不選択をするときに上がる行為はどれも楽な行為だ。
楽な行為は楽であるその時にすでにメリットであり、最も選びやすい。
しかしデメリットも多い。
でも不選択はデメリットを忘れて選択を忘れる事なので、パッと思いついて、楽で気持ちがいい選択肢であるスマホを手に取る事が多いのだ。
そして不選択の状態はさっきの飲み会の時みたいに急性的に不選択になる時と、ニートとか引きこもりみたいに慢性的に不選択である状態があると思っていて、急性的な不選択の時は使えるエネルギーの量が多いので不選択の末に行為する内容もエネルギーが高い事が多いが、慢性的に不選択になると選択自体のエネルギーがすごく上がってしまって、本当に家の中でできることしかできないし、トイレもめんどくさくなるし風呂もめんどくさくなるし、自炊もコンビニに行くのも面倒なのでカップ麺を啜ることになると思う。
不選択自体にエネルギーのキャップがあるわけではないと思うが、選択をしたり、選択をする時にちょっとエネルギーの高い選択を取るようにしないと、使えるエネルギーの量は増えないという性質もあるように思う。
不選択のデメリット
従って不選択のもつデメリットとして、以下が挙げられる。
・デメリットを考えられないので、物事がうまく運ばないこと。
・使えるエネルギーが下がるので選択できる行為が狭まること。
不選択つまり、家でダラダラすることニートすることと、選択すること特に、行動や活動をすることに関してどっちが得なのかと言われる事があるけど、選択をしてニートをしている人と、不選択によってニートになった人で話しが違う気がする。
なぜなら選択というのは不選択で取られる選択肢を意識的に取る事ができる。
例えばアニメなんかは別に不選択にならなくても今日は「30分"ごちうさ"を見よう」と思えばいいだけなので選択をすることで簡単に選ぶ事ができる。
でも慢性的な不選択になると、外に出る事が難しい。
「行動活性化」という認知行動療法が意味があるのも選択をして、行為を行うことによってなぜかエネルギーのようなものが使いやすくなるというのがあるのかなと思ったりする。
不選択のメリット
逆に不選択自体が完全に悪かというとそうではない。
人間は選択をするときにデメリットを考えたりするわけでその作業にはエネルギーが必要だ。
不選択をしている時には、デメリットを完全に忘れて楽をできる。
これはいわばマイナスになってしまったエネルギーを回復するのにはとてもいいのではないかと思う。
ものすごく傷ついた時とか、ものすごく傷つけられた時とか、働き過ぎた時とか、自然とこういった不選択の状態になる。
こういうのは以下の動画で言われているような氷のモードとかとすごく似ているなと思う。
内的感覚で理屈を作る
個人的に、こう言った議論、生理学的な議論というのはものすごく大事なんだけど、生理学の論理というのは僕たちの感覚と同じではないというのが、すごくストレスだ。
だから、僕らがクオリア的に感覚的に感情的にわかるような言葉で理屈を作るとそれが意味になると思う。
そしてこうした生理学的な話とも同じ現象を意図することで外と内側の論理が一致していくのかなと思う。
仏教なんかは全く生物学やら生理学がない状態で生まれた考え方だけどそれが科学的に効果があるという事がわかっていたりとか、脳科学でようやくわかったことがもう言われていたりするわけだ。
主観的健康感という自分の主観的な健康に関する指標が実際に自分の健康を予測したりもするわけで、僕たちの内的な感覚はかなり重要なんじゃないかと思ってこんな文章を書いているところもある。
選択のススメ
そんなこんなで不選択と選択の仕組みがなんとなくわかると、じゃあ不選択をしないように意識してみようとなると思うし、実際不選択をしないというだけならそんなに難しくないなと思う。
具体的には、デメリットとメリットをなんとなく感じてみて、やる、やらない、何分後にやる、何分だけやるというようなことを決めてみるというのがいいんじゃないかと思う。
しかもこの不選択をしないということは、以前のやる気の議論ででたような、すごく意気込んだ覚悟のようなもの、例えば、絶対にデジタルデトックスをするとか、勉強以外のことを考えないとか、仕事以外のことは考えないとか、そんなストレスフルな状態を常駐させる必要がない。
とは言っても、やりたくないことはあるわけで、やりたくないことをどうやってやっていったら良いのかとか、目標とか夢とかってどういう概念なのかとかそういったことを今後は書いてみたいと思う。
追記
続編をかきました。
やりたくないことの仕組みについて考えた内容です。
選択をしないでやっちゃう行為もあると思うし、やった方がいいと思ってても遊ぶことを選択をしちゃうというようなまさに先延ばしという現象もありますよね。
そんな内容です。
ご覧いただければ幸いです。