『気流の鳴る音 ー交響するコミューンー 』


真木悠介(見田宗介)
『気流の鳴る音–交響するコミューン』

ただいま読んでいる最中である。

読んだところまで内容の概略を示そうとしてもなかなか難しいな。

近代文明−近代知−資本主義社会の価値観などからフワーっと羽ばたき、それを相対化してみせる。
相対化するには、別の視点が必要である。
それは、近代社会とは異なる価値体系による「世界」を持つ共同体なのか?直接題材としているのは、メキシコ先住民の部族社会だ。
人間と自然の関係、人間と人間の関係について、近代社会(すなわち資本制社会)の「世界」とメキシコ先住民の「世界」を比較して考察している。

現代においてこの地球上にあまねく浸透しているのは近代知−近代的価値観(資本主義的価値観)である。政治にしても、法にしても、経済にしても、近代文明(近代文明の成熟した果実である現代…熟れているので後は腐るだけ)のものだ。世界中にあまねく広がっているため普遍的なものとも言えるが、そうでもない。
世界各地域(ヨーロッパの各地域を含む)の土着の上に近代システムは乗っかっている。土着性は多様でそれぞれ固有である。近代が一様であるのに比して多様だ。
しかし、それらの土着の多様性は元からバラバラな固有ではなかろう。土着は多様ではあれ「自然存在としての人間の意識の原構造のような地層で通底し呼び交わっているはずだ」とのこと。
すると、歴史のある時期に生じ発展してきた近代こそが特殊であり、土着が普遍であるわけだ。

この本は、先住民の呪術的な「世界観」を取り扱っているとはいえ、別に神秘的な本ではない。
むしろ現代の人文科学や社会科学を駆使している。そうして近代システムを振り返り、それを超えていこうと試みるものだ。

興味深い文章があったので紹介しておく。

「さざれ石の巌となるというようなアニミズム(自然宗教)を近代社会は嘲笑するが、預金が利子を生み土地が地代をもたらすというようなことを自明と考える。からだが資本です、といった表現は、ヌアー人(ナイル川上流域に住む人々)から見ればおそらく、双生児は鳥だ、ということ(ヌアー人の世界理解の一つ)以上に奇妙な信仰に見えるだろう」

とある。

モノが商品になることは社会の関係性によってだ。貨幣がただの貴金属や紙切れではなく(経済的)価値を持つ(=カネとなる)のも社会の関係の上での話だ。そして、「増殖する価値」として資本が現れる(なんて表現すれば良いやら?自分もよくわかってない)のも特定の社会的関係の中だけである。資本主義はある一つの呪術的価値体系であり、それは近代社会においてしか通用しないものだ。というように、近代社会は相対化されてしまう。

相対化と書いたが、それには想像力が求められる。現代社会であくせくして、他人の成功をうらやんでは、まだ自分より下がいると思っては自ら慰め、どれだけ稼いだか、どれだけ学力があるか、等々と思い煩っているのでは、今自分が生きている社会のありかたを相対化などできまい。鋭い視点と豊かな想像力とによって、「今、ここ」を超えるしかない。

思いつくことを適当に書き連ねたものの、自分のもやもやした気持ちを整理するほど、ぼくはこの本を理解もしていないし、また語彙も持ち合わせていない。

実に味わい深い内容なので、ゆっくりと読み進めていきたい。

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