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それがキリスト教のすべきことか?~伝道という下心

(2011年6月30日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

2011年6月18日付「中外日報」に興味深い記事があったので、番外編として紹介したい。

被災地布教は是か非か
僧侶の使命めぐり宗派超え意見交換


 仏教伝道協会(沼田智秀会長)の第41回実践布教研究会が6月8~10日、京都市西京区の浄土真宗本願寺派本願寺西山別院で開かれ、約20宗派の僧侶ら約60人が参加した。東日本大震災を受け、宗教者の果たす役割などについて活発に意見交換。「被災地での布教は是か非か」。宗教者にとって根本的な問いも投げ掛けられた。

まさに、拙ブログで触れてきたテーマと重なる。宗教者が抱える課題は、かなり共通している。信楽峻麿龍谷大学元学長の講話に続き、震災と宗教者の関わりをテーマに討論が行われた。記事では、救援活動と布教のバランスについてのやり取りを紹介している。

「宗派として布教がセットになるのか、それとも二の次なのか」
「信者になる、ならないは別として、こういう時だからこそ教えを伝えたい」
求めている人には法を説いてもいい」
「無信仰の人は今何にすがったらいいか、悩んでいるはず」
「迷いを覚えるし、混沌とした状況の中で勧誘は難しい
「ケース・バイ・ケースだ」
「私は布教を考えていない。行動自体が布教になっていると思う」

いずれも率直で実にイイ。牧師や教会員もこのぐらいオープンに議論したらいい。今回の震災後、キリスト教界ではこうした視点があまり見受けられないが、考えるべきテーマの一つであることは間違いない。

ちょうど、日ごろお世話になっているクリスチャン葬儀士のはるさんが、本連載に呼応して「伝道という下心」と題する記事を書いてくださった。

 そして人々の遭遇する艱難という意味では震災に限らず我々の関わるところでいえば葬儀においても注意していかなければならないところです。
 「葬儀は伝道の場である」とはよく言われることですが、私はその表現をあまり積極的に支持していません。「きっかけとして重要だ」というならわかるのです。葬儀を通して結果的に信仰に導かれる人がいればそれは素晴らしいことですけれども、たとえ伝道という言葉を使うにしてもそれはあくまでも触れる側が神を求めるのであって、教会側が自分たちの信仰を押し付けるべきではないと思うからです。だから特定宗教専門葬儀社の中でも珍しく、実はウチのホームページには「伝道」という言葉がひとつも出てきません(それはそれでどうなんだ 汗

葬儀と震災は決してイコールではないが、人の生き死に、病、艱難、悲劇、苦悩をどうとらえるか。そして、「被災地伝道は是か非か」。そもそも伝道とは何ぞや……と、議論すべきことは多々あるはずだ。

私たち被災地にいる者がすべきことは人や物による外面的支援だけでなく、目下の問題に直面する当事者ではできない総合的かつ客観的視点による深い思索と広い模索ではないだろうか。


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