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友達

「友達」について書きたくなって、
タイトルを書いてみたら
友達の「達」って複数形なんだなぁ、と気がついた。

今まで「友達」って言葉を何度も使ってきたはずなのに全然気が付かなかった。


子供の頃は、友達って言うからには、
お互いが、そう認識している必要がある、と漠然と思っていた。

「私達は友達です」って
お互いが感じている必要があるって。


学校や家庭で、先生や親からそんなふうに
習った記憶はないけれど
何となくそういうものだと思っていた。


実際に友達の意味を辞書を調べたら
『互いに心を許し合って、対等に交わっている人。
一緒に遊んだり喋ったりする親しい人』と出てきたから世の中的にもそういう認識なのかもしれない。


ただ、自分は大人になって、というか最近、
友達についての考え方が変わってきた。


相互の認識ではなくても、一方的な認識でも
「友達は友達でいい」と思うようになってきた。


つまり、勝手に「私はあなたの友達」って思っても構わないって。



相手からすれば、自分はただの「同僚」だったり
ただの「知り合い」という認識かもしれないし、
そもそも、少しの時間一緒に過ごしただけで、
もう自分のことを覚えていないかもしれない。


けれど、相手が自分のことを
どう思っているかはさておいて、
自分が「友達だ」と決めたら友達でいいんだ、と思うようになった。


それを誰かに証明する必要もないし、
私たち友達ですよね」って相手に押し付ける必要もない。


どうしてそういう考え方になったのか
言葉にするのは難しいけれど、


単純に相手のことを「友達だ」と思っていたら、
相手との関係が上手くいくように感じているからかもしれない。


自分が相手のことを友達だと思っていたら


ちょっと考え方が違うくても、
ちょっと話が合わなくても、
ちょっと嫌な部分が見えても、


でもまぁ仕方ない。

友達だしな、って。


人間関係において
「上手なコミュニケーションの取り方」を
身につけることは、役に立つと思っている。


自分もそれに頼っている自覚はあるけれど
でもそれ以上に、


「友達」っていう言葉自体が持つ
「受け入れる力」みたいなものが
自分には、どうしても働いている気がしてならない。


きれいごとに聞こえたりもするかもしれないけれど
どうせやるなら、きれいごとをやっていきたいと、自分は思う。

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