働き方と生き方の意識改革をして下さったパート同僚(2014年 45歳)
28歳で会社員を辞めてからというもの、それほどチームワークを必要としない仕事を、ぽつりぽつりとしていた。
主なものが、「フリーのイラストレーター(13年間)」と「広告代理店さんでのお気楽アルバイト(なんだかんだと17年間)」。あとは、アクセサリーの制作販売(4年間)、短期のパートやアルバイトなどで、イラストレーターの時は徹夜で大変だったりしたが、自分さえ頑張ればなんとかなる環境であった。
だがしかし!42歳を迎えようかという時、突如として「怒涛の変革期(大暗黒期)」が襲来!
猛烈なスピードで巻き起こる数々の難題は、今までの生き方では全く通用しせず、問答無用で自己変容の大渦へと引きずり込まれた。
……苦しさから一刻も早く抜け出すために、溺れもがく日々。
その中で、己のイヤな部分を直視せざるを得なくなった時、私はこれまでにない爆発的な怒りと痛みを覚えた。
特に苦しめられたのが、「チームワークや社会性の欠如」。
もともとうっすら感じてはいたが、周囲の人々や環境などが味方してくれたので、何となく許されて来た節があった。
だが、そうもいかない人や状況が続出し、やりすごせなくなったのである。
それからと言うもの、私は己の監視官となった。
ちょっとでも出来ていないと、心の隅に自分を追い詰め、ジクジクと責め立てる。そして、どうにもならないことが分かると嫌気がさし、傷ついた自分に塩を塗りたくっては、乾いた涙を流した。
世間では「自分の良い部分に目を向け、そこを伸ばそう!」と謳われている。
そんなの頭では分かっている。その良い部分が許されない環境だったら?それで生きていくのが難しかったら?イヤな部分で自分が傷つくのだとしたら?
……だったら、嫌な部分を消すしかないではないか。
それには一体どうしたら……。
「じゃあ、武者修行に出よう!」
私は、大手不動産会社の営業所でパート勤めを開始した。(※広告代理店のアルバイトとアクセサリー制作を続けながら)
仕事内容は、週3日のチラシ作成。営業所の皆さんは総勢30名弱。こんなに大人数を相手に働くのは初めてだ。
どうだ!こんなガッチガチの環境なら、鍛えられるだろう!
……で。蓋を開けてみると、そこは想像以上に私には過酷な環境であった。
まあ裏を返せば、望みどおりの鍛錬の場なのであるが、それにしてもこういう職場もあるのかと驚愕した。
何しろ場が荒い。常に嵐の渦中に居るかの如くとっちらかっていた。
社員間で怒号が飛び交い、皆が浮足立っている。
そんな中、私はチラシのレイアウトやら、緻密なデータの入力作業やらを集中して正確に行わなければならなかった。
……初日にして、しなびる心身。
ちなみに「緻密なデータ」とは、チラシに載せる不動産物件のスペックである。
それらの細々としたデータは、社内の共通ファイルから引っ張って来るのだが、掲載されていない場合は、物件を担当する営業さん(若者男性)に依頼して回答を貰うことになっていた。
が、とてつもなくレスポンスが遅いうえに、お忘れになりまくる。
なんというか……皆さん仕事の進め方が独特で、何度伝えても繰り返す。
『仕事ってこんなもんだっけ?全然楽しくないし、やりがいもないけど……』
3日目、溜まりに溜まった未完成の原稿画面を前に、遠い目で放心した。
しかし、それでも私の中の自己鍛錬熱は冷めることがなかった。
『これを乗り越えれば、足りない能力が身につくんだからね!』と、脳内で己の首根っこを掴んで言い聞かせ、何度営業さんに忘れられても、どんなに所内が騒然としていようとも、どんなに彼らの上っ面トークに鳥肌を立てようとも、そして、どんなに心が干からびようとも、ミスがないよう、穏やかに円滑に仕事が回るよう、謎に気力を振り絞ったのだった。
さて、そんな職場に、同じくチラシ作成要員のパート女性がもうひとりおられた。
年齢は私より8歳くらい年下だが、職場では1年ほど先輩で、本業はフリーライターさん。その傍ら、週3~4日出勤されていた。
でもって、これまた「営業さんの理不尽さや仕事の遅れ」に対してすさまじくハッキリ物言いが出来る、鋼のメンタルの持ち主。指摘の仕方は、まさにジャックナイフのようにキレッキレであった。(尚、女性陣には普通口調)
そのような際どさMAXな光景を、私は何度も目の当たりにすることになるのだが、内心ちょっとハラハラ。
『……い、いや、私も営業さんには困っているけど、それではさすがに角が立つのでは……?』
そして、営業さんの陰の声も耳にする。
「やりにくい。なんだかな~」
けれど、私はだんだん彼女のやり方に妥当性を感じるようになった。
「仕事なんだし、相手によってはそういうやり方もアリなのだ。長く続けるには、誰に何と思われようが、自分が進みやすいようにしたっていいのだ」
「そもそも、自分が苦手だと思う人たちに嫌われたっていいんだ。円満だけが解決策ではないのだ!」
これは、今までの環境では決してお目にかかれなかったやり方。
私は戸惑いながらも、彼女の背中から急激に学ばせていただいたのあった。
そして、勤務5日目。珍しく彼女と帰りが一緒になった。
道すがら、「仕事を間違えないようにするため、とても緊張する」と話したところ、彼女はきっぱり言い放った。
「大丈夫、大丈夫!仕事で失敗しても、死にゃーしないから!」
なんとも強烈なアドバイスに一瞬面食う。が、そのカラッとした物言いが、なんとも爽快で可笑しくて、アハハと大笑いした。
同じくアハハと高らかに笑い、風で乱れた髪を整える彼女。
その腕には、天然石のお数珠ブレスレットがつけられていた。
黒や茶色など、どれも強そうな色の石である。
「あ、天然石のブレスレットしてるんですね!作ったんですか?」
ちょっと気になった私は、思い切って尋ねた。
そしたら彼女は、私に見えるようにブレスの腕をブンと突き上げ、
「お店で相談して作ってもらったんですよ。金運と仕事運で、って!」
と、やはりカラリと力強くお答え下さった。
……その時、私は何となく感じたのだ。
きっと、彼女も色々あった上での「大丈夫!」だったんだろうと。
だから、聞いた直後、自然と心がスッと軽くなったのだ……。
それは、彼女へのまなざしが大きく変わった瞬間でもあった。
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ところが、それからわずか数日後、私は急遽パートを辞めることになった。
当時ガンを患っていた田舎の父が、緊急再入院したため、無期限で帰省しなければならなくなったのだ。
最後の日は、彼女に会うことが出来なかった。
なので、私は机に感謝のメモを残し、営業所を去った。
父は、帰省後1週間ほどで他界した。
2週間後バタバタと自宅に戻り、一息ついた私は、広告代理店でのアルバイトを再開(こちらは仲良し社員さんに、無期限欠勤を認めていただいていた)。
おまけに今度は、フリーでライターもすることになったのである。
「勢い勇んで修行に出たのに、結局ガチガチのチームワークをあまり必要としない環境に戻ってしまった……」
遠い目で思う。とは言え、営業所での学びは大きかった。
それは、当初渇望していた「チームワークや社会性」とは見事に真逆な「外界に流されない在り方」だったが、だからこそ「チームワークや社会性に沿えないことだって個性なのだ。そう胸を張って生きて行っていいのだ!」と、己の憎々しい部分を少しずつ許せるように。
そしてその受容は、心の傷をどんどん癒し始め、「私は私のままでいい」という大きな安心感をもたらしていってくれたのだった。
大変だった職場。
そこでの経験を宝にしてくれたのは、まさに彼女のおかげ。
彼女が彼女らしくいてくれたおかげである。
そしてある意味、「とんでも劇場」の役を担って下さった社員の皆さんのおかげでもある。
思い返すと今でも苦笑いするが、何にも代えがたい貴重な体験。
本当にありがとうございました。
【👇ちょっとした思い出👇】
営業所の女性スタッフは、社員さん2・契約社員さん2・パートさん3の計7名であった。
その中に、私より6つ位年下で「独身・美人さん・古株」の契約社員さんがいらっしゃったのだが、気に入らない人や異なる考えに対し、かなり攻撃力高めな方であった。(そして、もれなく私もアタックされる😅)
でもまあ、裏を返せばしっかり者のまとめ役。 「まとまりのない荒々しい職場」を「スケ番的に牛耳る姐さん」という役割も担っていたように思う。
……で、そんな彼女。とある夜にレストランで開催された「年配所長×若い副所長×女性スタッフ4名」の食事会(←名目不明)にて、何故か誰も出来なかった鍋の灰汁取りを私が普通に行ったら、妙に感心しておられた。
ちょっと可愛かった。
(そしてせっかくご馳走になりながら、この後間もなく退職する私……😅)
余談その1:パート女性との会話で分かったこと、もう一つ
「死にゃーしない」アドバイスの後、彼女は何かの話の流れで、「目が痛くなるから、パソコン用の眼鏡かけた方がいいですよ!手頃なものが駅前の▲▲(眼鏡チェーン店)に売ってますから!」と、当時問題視され始めた “ブルーライト”を軽減する眼鏡の着用を、熱心に勧めて下さった。
……そうなのだ。彼女は逞しくも優しい方だったのである。(もちろん私はその足で▲▲へ……!)
余談その2:パート勤めの進退と父の体調の不思議なリンク
営業所でのパート勤務は、最終的に在籍2週間弱、勤務日数にして6日であった(短!)。
辞めるきっかけとなったのは、前述したように田舎の父の病気である。
父は、パート勤めを始める1年半前にガンの手術を受けていた。
その時も私は、何度か帰省して母のサポートをしていたのだが、症状が落ち着きを見せたため、パート勤めをスタートさせた。……ところが、すぐに職場環境で苦しむことに……。
と、そこで父娘間でちょっと不思議なリンクが起こった。
私が『やはり向いていないから辞めよう!』と思うと、母から電話で「父の体調が良くなってきているようだ」との連絡が、『いやいや、もう少し頑張って続けよう』と思い直すと、「体調が悪くなった」との連絡があったのだ。
しかし、私はその連動性を気のせいにし、なおも進退を思いあぐねた。
すると間もなく、父の体調が急変。
緊急再入院の連絡があり、更にガンが転移・再発していることも発覚。
回復の見込みは難しいとのことで、私は必然的に無期限で帰省せざるを得なくなり、悩む間もなく辞める流れとなった。
なお、両親に仕事の話は一切していない。なので、この一連の流れは、死期が迫っていた父が「向いていない事は、もう辞めたらどうだ」と導いてくれた気がしてならない。
生前の父は、良くも悪くも利他的過ぎる上に無邪気な子供のようで、それが故に巻き起こる珍事に、私は幼いころからフォローを強いられた。
それらはトラウマになるほど大変だったが、やはり「魂的」には親だったのかもしれない。ふとそう思った。
余談その3:その後、意外なところでチームワークと社会性を得る
おこまがましくも「チームワークとか社会性がちょっとついて来たんじゃ!?」と感じ始めたのは、意外にも個人間でのやりとりが多い“アクセサリー制作活動”の場が広がった頃であった。
タイミング的には、ちょうどパート勤めを辞めた辺りから。
活動の場が人づてに広がっていったのと同時に、それまで全く関わることのなかった幾つかの新たなコミュニティに入ることになり、そこで多くのことを学んだのだ。
コミュニティには、個人で活動されている方々が沢山いらっしゃった。
例えば、ものづくりの作家さんや個人経営の店主さん、音楽家さんやワークショップ主催者さんなどなど。
個性的でセンスも豊か、自由な発想をお持ちだった。
そして皆さん、どんなにお忙しくても、向き合う相手に対して驚くほどきめ細やかで温かな「陰」の心配りを忘れないのだった。
そのような心の遣い方に、いたく驚き感動した私。
自ずと「与えていただいた想いを、私も他の方々に返していこう!」と、本来のチームワークの基本とも言える“真の心遣い”に目覚めていったのだった。
やはり、心が動けば何でも自ずと身につくようである。
スパルタ式じゃ、HOW TOでしか身につかないのだ。
余談その4:“真の心遣い”に目覚めたもうひとつのきっかけ
“真の心遣い”への目覚め。そこに達するには、実はもうひとつ「私オリジナルの試み」が。
それは、「瞬間的にやりたくないと感じたことは、絶対にやらない。そして、それに対して一切罪悪感を持たない」を、あくまで「一時期に」徹底してやってみたことである。
「やりたくないこと」
私の場合は、些細な事だが、傍から見ると空気を読まない、ちょっと嫌な奴に映るであろうことだった。
例えば街中、歩道を広がって向かって来る人たちには道を譲らないとか、疲れている時は次の人のためにドアを押さえておかないとか、無理に笑顔を作らないとか。眠い時は自分の事以外は一切何もやらない、少しでも気が乗らない時はバッサリ誘いを断るなどなど。
で、なんでこれらが効果的であったように思うのか。
段階を追ってご説明する。
①まず、「やりたくない」を許可したことで、自分と仲良しになり、気が楽になる(真の自信)。
②「やらない」自分だったとしても、街ゆく方々に優しくしていただいたりと、ちゃんと守られ生きていけている事実を知る。そしてそれは、「目には見えぬ無条件の愛の存在に守られているからだ」と思えるようになる。
③その感激と感謝は、底知れぬ安心感となり、絶対的な幸福感が訪れる。
④それらの感情を、今度は外の世界に働きかけようという気持ちになる。
※この段階での配慮は、良い意味で自分に優しい気の抜けたもの。以前のような「こうされたら、こうしなくっちゃ!」的重いエネルギーの気配りではもはや無い。
※また副産物として、仮に人がやってくれなかったとしても、「まあ、私もやりたくないことは出来ないからね!」と割り切って考えられるようになり、心にも余裕が。他者との適切で健全な「境界線(バウンダリー)」も保つことができ、心も体もどんどん楽になっていった。
但しこの方法、万人向けかと言うと、そうでもない気がする。
向いているのが、私のように「出来なくもないし、まあいいか……」と、本当の気持ちを蔑ろにして何となくやってあげてしまったり、同調してしまったりすることが多いタイプ。
私に関しては、それが当たり前すぎていたし、その恩恵もまあまあ大きかったので、42歳に「怒涛の変革期(大暗黒期)」が来るまで殆ど意識していなかった。
……で、それがどうなったかと言うと、自己不信になっただけでなく、「自分がやってあげてるんだから、他の人も是非やって欲しい!」と、人への期待値も爆上げすることに。
でもって、これまた期待通りにならなかった日にゃあー、頭では仕方ないと思っていても、潜在意識には黒い感情が積もりに積もったりして、自分で自分をどんどん不自由に苦しくしていったのだった。
なので、「やりたくないことを少しの間だけやらない」方法は非常に自分に合っていたのだと思う。
心身を軽くするのは自分次第だし、十人十色。
これからも色んな方法を試してみたい。
余談その5:「自分の良い部分を伸ばす」はやはり真理だった
営業所パートを辞め、アクセサリー制作活動などから学びを得て、7年程経った頃、ようやく「自分の良い部分を伸ばす」は、やはり真理であったと心の底から思えるようになった。
更には、自分自身が嫌だと思っていたり、他の人にダメ出しをされたりする「その部分」こそが、実はその人にしかない長所や強みかもしれないとも。
……まあ、時にはより成長するため、客観的に省みて多少軌道修正した方がよい場合もあるが、そもそも相手のダメ出しは、単にその人の価値観であって真実ではない。
だから、誰に何と思われようが、自分が自分の一番の味方になって堂々としてさえいれば、勝手に生きやすい環境が“ちょっとずつ”やって来てくれる、そんな気がする今日この頃である。