見出し画像

一期一会の大切さに気がつかせて下さった方(2003年34歳)

当時引っ越したばかりのアパートに、そこはかとなく洗練された雰囲気まとうご夫婦が住んでおられた。

私よりちょっとだけ年下であったろうか。ご夫婦ともごくたまーにしかお会いしないのだが、それでも奥さんとはにこやかに挨拶を交わす間柄。落ち着いた穏やかさが好印象の、可愛いらしい方だった。
そして、引っ越しのご挨拶の際にチラリと拝見したお部屋は、建物の風合いを活かしたミッドセンチュリー的雰囲気。そのセンスがまたとても素敵で、私は秘かに憧れを抱いたのだった。

そんなある日の夕刻。買い物から帰ると、敷地内で静かに佇む奥さんの姿をお見掛けした。
かなり久しぶりである。
軽く挨拶を交わす二人……。そしたらなんと、奥さんの腕にはスヤスヤ眠る赤ちゃんが!そう、第一子ちゃんがご誕生されていたのだ!

「えええーー!知りませんでした~!おめでとうございます!」
「ありがとうございます!そうなんですよ~」
穏やかに答える奥さん。
私は、好奇心のままにあらためておくるみの中をのぞいた。
……いやなに!ものすごくかわいいではないか!

あまりのかわいさに、眠れる母性が一挙に目覚め、興奮しまくる私。
けれど、奥さんは外の空気を吸って気分転換されているように思われたので、邪魔をしないよう、その日は速やかにお別れした。

そしたら一週間後、再び同じ場面に遭遇した。そして、更にまた一週間後。そしてまた……と、なんだかんだちょいちょい顔を合わせるように。

でもって、その都度赤ちゃんとご対面させていただいたのだが、何度見てもやっぱりかわいい。
人さまの赤ちゃんで、こんなにかわいいと思ったのは初めてだった。

「いや~お世辞抜きで、本当にかわいいですね!」
毎度興奮する私に、声をあげて笑う奥さん。
そんなこんなで二人は少しずつ打ち解け、段々と軽い立ち話をするようになっていった。
「うちはトイレには窓があるのに、お風呂場にはないんです。トイレよりお風呂の換気をしたいのに!お風呂に窓があって羨ましいです……アハハ」
「アハハ、確かにそうですよね。でも、うちはダイニングの向きが使いにくくて……」
などと、造りが異なる互いの部屋の良し悪しを笑い合ったり、ちょっとした個人的な話をしたりなんかして、短いながらもほんわかとした時間を何度も過ごした。

私はとても嬉しかった。同じアパートにとても気の合いそうな方がおられることに。
そしてそのことが、未だ慣れぬ土地での、得も言われぬ安心感に繋がっていることに……。

とは言え、立ち話以外には接点の無かった間柄。
私は何となく遠慮してしまい、それ以上の関係になることはなかったのだった。

それから半年が経った頃であろうか。奥さんが初めてうちの部屋を訪ねて来られた。
「こんばんは!あれ、どうしました?」
「急にすみません……。あの……実は、あと1週間ぐらいで引っ越すんです。主人の実家が酒屋なんですけど、そちらで一緒に住むことになって……」
私は二重に驚いた。お引越しされることはもちろんのこと、わざわざご挨拶に来てくださるなんて……。

「ええ!そうなんですか!そうでしたか……。旦那さんのご実家に入るのは大変かもしれませんが、体に気をつけて頑張ってくださいね……。今までありがとうございました」
咄嗟に出たのは、なんとも紋切り型のような言葉。
我ながらもっと心情を伝えられる言い方は無いのかと歯がゆくなったが、その分、どんな環境でも幸せであって欲しいという願いとエールの“念”を贈った。

と、そこで奥さんはちょっと不思議な間を空けられたのだった。
「……………」
「?」
妙に伏し目がちな奥さん。その様子をじっと窺う。
すると間もなく、
「あの……お話していて気が合いそうだったので、お友達になれると思ったんですけど……。残念です」
と、小さく打ち明けられた。

「!」
瞬間ハッとし、胸が苦しくなる。
なんと純粋で美しい告白なのか。……押し寄せる感動に言葉が詰まる。

しかし、理性はそれらをかき分け、応答したのだった。
「そうですね。私もそう思っていました。残念です……。近くに来たら、寄ってみてくださいね!」
「はい、ありがとうございます……」

奥さんは、なんとなくまだ何か言いたげだったが、ひとまず二人は笑顔で会話を終えた。

------------------------------------------------------------------------
その夜。布団に入ると、凄まじい寂しさがこみ上げてきた。
……失いそうになって初めて気づく、大切に想っていた気持ち。当たり前に心を占めていた存在。
そのスペースから消えゆこうとする、痛みとザワザワが酷い。

暗闇の中で、ボンヤリ天井を見つめる。
「別れは突然やって来る。だから、どんな時も一期一会で向き合うべき。交流を持ちたい人とは、遠慮せず素直にそうするべき」
張り裂けそうな胸は、そう諭した。
「全くその通り……」
私は、後悔と悲しみに沈む心でそう答えた。