【映画評】 小森はるか『かげを拾う』 「影」から「かげ」へ、レイヤーとなる被災地の光景
(見出し画像:小森はるか『かげを拾う』)
小森はるか『かげを拾う』(2021)
(メモ1)
「越路山」は「こしじやま」と読むのか「こえじやま」と読むのか?
越路山の名の由来をわたしは知らないが、中世の東街道が山裾を回り込むようにあったため、「あの山を越えると路がある」と言ったことだろうか?と書かれた紹介webがある。信じていいものかは不明である。そのwebには、越路山を八木山と呼ぶようになったのは、仙台の豪商・八木久兵衛が野球場などの施設を作った昭和になってからのようだ、とも書かれている。
映画がとらえた展覧会「青野文昭 ものの、ねむり、越路山、こえ」について、BTデジタルに記事があった。
(メモ2)
BTデジタルにあるような「ダイダラボッチ」伝説や展示について立体的に構成された映像だと思っていたのだが、本作は展覧会の関連企画としての資料映像だった。
海岸で漂流物を拾うショットで始まり、類似のショットで終わる。その間を繋ぐのがアトリエでの制作風景と展示作業。そして青野文昭と彼の妻による語り。
本作で一番興味深かいのが最初と最後の影のショットである。最初のショットは青野の足元と地面に落ちた青野の短い影、最後のショットは青野のいくぶん遠めのショットによる長く伸びた影。どちらも存在を影として示しているのだが、“短/長”の影による時間の経過の表象なのだろう。そして、タイトル「かげを拾う」。「陰」でもなく「影」でもない。それは、海岸に投影された青野の人影であり、海岸に漂流した物の背後にある、想像することでしか見えない「かげ」でもある。映画はその「かげ」を立ち現わせようと模索するアトリエの青野文昭の姿をとらえる。そして、青野の人影が単なる「影」ではなく、新作制作から浮かび上がる「影」が「かげ」へと変位することで映画を終わらせようとする。興味深い構成とタイトルである。
(映画遊歩者:衣川正和 🌱kinugawa)