【映画評】 ジョージアの監督テンギズ・アブラゼ『祈り三部作』について
南コーカサスにある共和制国家ジョージア。この国名を耳にして、その位置を特定できる日本人はどれほどいるだろうか。わたしもその中のひとり。ジョージアはソビエト連邦の構成国でもあったが、1991年のソビエト連邦崩壊に伴い独立。日本ではグリジアという国名で呼ばれてきたが、2015年から国名としてジョージアを使用している。
ジョージアの中央部に位置するゴリは、ソビエト連邦の最高指導者ヨシフ・スターリン(1878年〜1953年)の出身地である。スターリンの大粛清と呼ばれた強権支配で、数十万人が処刑あるいは追放されたという。
さて、ジョージアの出身者で、日本で最もよく知られた人物といえば関取の栃ノ心(1987年〜)だろうが、わたしのような映画好きには、異能の才能とでもいうべき二人の人物、オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani 1934年〜)、そしてテンギズ・アブラゼ(Tengiz Abuladze 1924年〜1994年)をより身近に感じる。
ジョージアに映画が誕生して約110年。草生期よりソ連邦崩壊後に至る現在まで、ジョージアの映画文化は自国の民族文化を積極的に取り入れ、特有の映画話法を作り上げてきた。
この国の映画監督での第一に思い出すのが、ワンシーン・ワンショットの独特のカメラワーク、社会風刺と毒の効いたユーモアをちりばめた映像が特徴のオタール・イオセリアーニ。彼の作品は旧ソ連下では公開禁止となり、1979年にフランスに移住してからは寡作ながらも、作品が発表されるたびに話題をさらう監督としてわたしたち日本人にも馴染みのある監督である。
そして、ひときわ民族性と精神性を放っているのが、テンギズ・アブラゼ。とりわけ『祈り三部作』(または『懺悔三部作』)と呼ばれる作品群は民族性に基づくスターリン批判の作品として、日本ではその存在だけは知られた作品であった。
本稿ではテンギズ・アブラゼ監督『祈り三部作』を取り上げてみたい。
『祈り三部作』は第一部〈祈り〉から第二部〈希望の樹〉を経て終結の第三部〈懺悔〉の完成まで、20年の歳月を要した作品群である。日本では第二部〈希望の樹〉と第三部〈懺悔〉は公開されたものの、全編として公開されるのは〈懺悔〉の完成から30年以上経過した2018年のことである。
第一部〈祈り〉(1967年)
19世紀ヴァジャ・プシャヴェラの叙事詩「アルタ・ケテラウリ」「客と主人」より脚色。
映画パンフレットの解説によれば、発表当時は高度な芸術性のために上映される機会が少なく、論じられることもなかったという。後年、第二部〈懺悔〉が話題になったことを機に、再評価されるようになった。日本上映は今回が初めてである。モノクロの荘厳な画像、全編を支配するような沈黙。そして静かな独白とナレーション。いわゆる難解な作品で、一度見ただけで内容を理解することは不可能のように思われた……もちろん、わたしには理解困難という意味なのだが……。再上映を期待したい気持ちである。
印象を簡潔に述べると、人の〈本性〉は美しくもかくも残酷であるということ、「美」には「残酷」が随走するということ。わたしたちは美しさを求めるあまり残酷さの不意の接触に気づかないでいるし、残酷さがあるからこそ、人の〈本性〉というものは美しくも滅びることはないという不条理。
「美」と「残酷」、それは『祈り三部作』に共通するテーマである。
第二部〈希望の樹〉(1976年)
ギオルギ・レオニゼの短編集から脚色。
世界は「断片の連なり」である。この命題が真であり偽であるという矛盾と整合性が織りなす不可思議な世界。それは公理的集合論や記号論理学のような数学基礎論の世界とどこか似通っているようにも思えるのだが、断片の連なりの公理となるのは村の因習である。そうでなければ、本作品には美しさもなれば残酷さもなく、それは風俗でしかなくなるだろう。
「断片の連なり」と述べたけれど、それは、幾つもの物語の断片が全編に散りばめられ、いわば、キャンパスを彩るエピソードの「豊かな色彩の連なり」ということである。それを因習という基底により村の秩序を保持させることが、新たなエピソード「悲劇」の生成となる。因習にまみれた悲劇、それは残虐であるけれど美しい。
美しい。そんな風に書けば倫理を欠くことになるのかもしれないのだが、わたしがそう感じるのは、悲劇の前に絶対的な美があり、そうであるからこそ、残虐さの生成が際立つのである。それは、次のことだ。
映画終結前のナレーション
「ほこりとごみにまみれた所にこれほどの美しい花が咲くとは、美しさはどこから来るのだろう。どこへ行くのか、どこに消えるのか、しばし隠れるだけなのか」。
美しい花とは、聖女のように美しいマリタ(リカ・カヴジャラゼ)であり、牧童ゲディア(ソソ・ジャチヴリアニ)との純粋な愛のことである。言うまでもないが、監督の中で、マリタの美は女優リカ・カヴジャラゼと同一化しているだろうし、映画を見る観客においても、リカ・カヴジャラゼは完璧な美としてあるだろう。
ジョージアの国民的作家ヴァジャ・プシャヴェラ(1861〜1915)の「人の美しい本性が滅びることはない」という命題。これは〈祈り〉冒頭に置かれているのだが、これが直接的に反映したのが、〈希望の樹〉である。
第三部〈懺悔〉(1984年)
本作品の主要出演者であるヴァラムとアベルを演じたのが同じ俳優(アフタンディル・マハラゼ)であると知ったのは事後のことである。前者は独裁者であり、後者はその息子である。
これを同一俳優という一つの身体の持つ二重性(あるいは、狂気と凡庸)の可視化でもあると理解した。アフタンディル・マハラゼは異能の俳優である。
独裁者(元市長)の姓アラヴィゼは、「誰でもない」という意味のジョージア語「アラヴィン」からの造語ということのようだ。
ここからは二つの意味が読みとれる。
ひとつは、「誰でもない」とは「誰でもある」ことの裏返しであるということ。つまり、人間の「凡庸さ(=誰でもある)」の裏返しとしての「狂気(=誰でもない)」。人間は等しく凡庸であり、「凡庸さ」が持つ狂気としての独裁者であり、独裁者には「誰でも」なる可能性を秘めているということである。
ナチス政権下で、ユダヤ人を絶滅収容所に移送する部署の責任者だったアドルフ・アイヒマンを思い出しすがいい。アイヒマン裁判(1961年)を傍聴したハンナ・アーレントが、誰もがアイヒマンの「狂気」と隣り合わせた「凡庸さ」の存在であることを見抜いたことを。
ふたつ目は、その延長線上にある人間の二重性。
これはヴァラムとアベルを演じたのが同じ俳優が演じたことと関連するのだが、アラヴィゼは狂気の父であるヴァラム、そしてその凡庸な息子アベルへと分裂する。ひとつの名が狂人と凡庸な人間としてあるということでもある。ヴァラムとアベルを同一の俳優アフタンディル・マハラゼが演じることの意味はここにある。単に、父と子の容姿が似ているということではないはずだ。
「誰でもない」ことの困難とは誰でもないが故の二重性をどのように引き受けるかということだろう。その「誰でもない」とは、とある男の姓「アラヴィゼ」ということなのだが、アブラゼには狂人の象徴であるヴァラムと、狂人が亡霊のごとく併走する凡庸さの表象としてのアベルという二重性をあらかじめ纏っており、事態をとりとめもなく解決不能へと導くフレームの遠近と同じなのだ。
『懺悔』はスターリン時代の恐怖政治の暗部を描いた作品として、発表当時は公開禁止となった作品であることを最後に記しておきたい。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)
テンギズ・アブラゼ『祈り三部作』トレーラー