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《映画日記16》 記憶を復元する(Vol.1)メカス/ホアン・シー/アルフォンソ・キュアロン/ほか

(見出し画像:アルフォンソ・キュアロン『ローマ/ROMA』)

本文は
《映画日記15》濱口竜介の短・長編/ジャン=マリー・ストローブ/ファスビンダー/クルーゲ/ほか
の続編です。

この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。

ある月の初日の映画日記を、うっかりその前月の映画日記に上書きし、前月の記録がそっくり消えてしまった。AppleのiCloudを使用した記録だから再現ソフトを使っても復元はできない…少なくとも私の知識では。
そこで、それまでの私のツイートと記憶を頼りに、失った記録の復元を試みた。毎月2万字程度の映画日記になっているから、1/3くらいの復元だろうか。
時系列による復元ではなく、映画タイトル別・項目別復元にした。

10日間ほど台湾に滞在。
今日は映画ではなく、ひたすら台北の街を歩く。
マルテの手記ではないけれど、見ること、ひたすら見ること、眼の力を信じること、自分の眼に信をおくこと、私とは眼である、と信じられるほどに。

台湾に幾度か訪れ、これまでさほど気にもとめなかったのだが、電線が見当たらない。日本で風景を撮ろうとすると、たいがいは電線が写り込んでしまうけれど、台湾にはそれがない。なぜ電線に気づかなかったのか。それは、あまりにも看板が派手なために電線がないことに気づかなかった、ということなのだろうか。

台北で見たベトナム映画、アッシュ・メイフェア『The Third Wife』。 中国語タイトルは『落紅』。いくつもの層を纏う素晴らしいタイトルだ。日本での上映はあるのだろうか。

台北で見た映画で印象に残ったのは『ローマ/ROMA』『落紅』
『象は静かに座っている』も見たかったのだが、台北に着いた前日に終映していた。

今日は帰国。帰国したら荷物を置き、自宅近くの映画館でホアン・シー『台北暮色』を見る予定。間に合うだろうか。 そして翌日の夜は書店・誠光社でメカスだ。

関空着陸から京都行き特急はるかに乗るまで1時間もかかった。京都駅に着いた頃には『台北暮色』は確実に始まっている。 特急はるかもローカル線並みにのろい。 成田や羽田と比べると、関空はアクセス悪過ぎ!

ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』(2012)@誠光社
テクストの視覚化。それは声ではなく、眼として呈示され、私たち鑑賞者に、読むこと、無音の声を要請する。興味深いのは、テクストの時間である。鑑賞者の無音の声を十分に保障しているかと思えば、瞬間として、つまり、無音の声すら拒否するかのような視覚化もあったりして、それは、思考のリズム、スピードの緩急を要請しているのだと思えた。そして、バローズやギンズバーグだったらこんな風に読むのかな(本当は、彼らの声を耳にしたことはことなんてないのだけれど)、と英文を無音の声で読んでみると、なんだかとても気持ちよくなる。それは、黙読ではなく、無音の声という身体性。それゆえなのか、身体の発露としての現れとしての気持ち良さなんだと思う。メカスの作り出すショットが、黙読ではなく、〈無音の声=身体性〉を要請しているのだろう、きっと。

ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』は様々なことを呈示している。 フィルムエディター。メカスの作品はコマという語がふさわしいように思える。コマは切断を前提としている。そして、切断がなければコマとは言わない。

フィルムエディターによる作業は「Outtakes=拾遺集」ということ。
エディターによるコマの切断により、逆説的に連続を生み出すけれど、それでもなお、コマの間という不連続の意識は払拭できないなあ。意識下に沈む、ということなのかなあ。

こんな映画唯物論、すでに語りつくされているようにも思うけれど、メカスを見ると、そうではないと疼いてくる。だからメカスは厄介なのだ。

『幸せな人生からの拾遺集』については比較的長い文を書いている。よろしければ下記webを覗いてください。

台湾から帰国した日に見ることができなかった『台北暮色』。日を変えて見る。

ホアン・シュー『台北暮色』(2017)@出町座
シューが元恋人と口喧嘩をして家をとび出す。カメラは路地を抜けるシューを背後から捉え、そしてシューの前に回り込む。そのスピードとリズムがまるでシューの接触を拒む感情のようでヒリヒリする。そしてフォンとの高速の爽快感。それを90年代フランクフルト派のような音楽がスピード感を支える。

フランクフルト派のような音楽とはフランクフルトを拠点とするSLOP SHOPのMAKRODELIA2のことだ。都市の猥雑な匂いとノイズ。 『台北暮色』は、猥雑さとノイズが入り混じっていながらも、湿度と柔らかな光を肌にまとうことの気持ちよさもある作品。ノスタルジーとしてではない現代の台北。台北はいいなあ。
今週末で上映は終了。なんだか寂しい気分。あのパーソナルなショットを思い出すとそんな気分になる。もう一度見ておこうかな。台北好き!

『台北ストーリー』の台北には、戒厳令解除2年前の、時代の重力のような空気感が漂っていた。そして戒厳令解除から30年後の『台北暮色』の台北では、時代の重さはパーソナルの下部に姿を消したかのように見えるけれど、得体の知れない抑圧と孤独の深さが露出してきた。

台北にはこれまでに何度か訪れたことがあるが、『台北暮色』ほど、いまの台北の空気感が溶け込んでいる作品はない。すぐにでも台北に飛んで行きたい気持ちだけど、そうはいかない。だから、この作品を見て、台北の空気感に浸ってみたい。

オムニバス作品『21世紀の女の子』(2018)を見る。
これは映画へのファスビンダー的言及なのだと思う。
たとえば加藤綾佳『粘膜』が映画への自己言及のように思えた。加藤綾佳の「粘膜=フレーム」論。フレームが分泌する粘液を鑑賞者の眼が濡れとして感受するのか(たとえば「今夜は蝸牛になりたい」とか)。感受することで、フレームはショットとなるのだと。それがなければ、イメージはイメージでしかなくショット=映画ではないのだと。そのとき、はじめて1秒間に24回の嘘が真実になるのだと。

サスペンスホラーの名作といわれる旧作を見る。睡魔に襲われながらも音楽ばかりが強烈に鳴り響いていて、私はこんなの好きじゃないなあ。リメイク版も予告編の印象では、見なくてもいいかなあ。

フー・ボー『大象席地而坐(像は静かに座っている)』(2018)を見たのだが、主人公を背後から追尾するようなカメラは、まるでワン・ビンのドキュメンタリーに、物語という時間が侵入したかのようだった。時間は、断層として繋がっている。素晴らしい。

愛知芸術劇場で開催される七里圭『サロメの娘』アクースモニウム・パフォーマンスに行く途上、名古屋へ向かう列車でメカスと詩人の吉増剛造の対談を読んだのだが、名古屋の会場に吉増氏の姿を発見。列車内での読書が吉増氏の出現を導いたのか?
『サロメの娘』アクースモニウム・パフォーマンスを前にし、吉増氏の中で、どのような言葉が立ち上がってきたのだろうか。言葉の結晶を読んでみたい。
『サロメの娘』アクースニウム上映。今回が決定版とのことだが、音響、空間とも、これ以上のスペックはない最高のパフォーマンスだった。

井上春生『幻を見るひと』(2017)。東京のポレポレ東中野の上映、まもなく終わるけれど、次は私の地元である京都でということにならないかなあ。題材が「京都の吉増剛造」なのだし。 同志社寒梅館で1回きりのプレ上映はあったけれど、映画は一定期間上映することで街に馴染む。映画が街に馴染むって大切だよね。 

寒梅館で『幻を見るひと』を見た日、私は次のようなメモを記している。 3.11の圧倒的な目の前の光景に、詩人は言葉を紡ぎ出すこができなかった。そこにあるのは、言葉をもはぎとっていった「水」の衝撃であった。 これが京都の水につながり、上昇する龍、天へと起ち昇る水のイメージとなる。それが幻を見るひと吉増剛造なのだ。

アルフォンソ・キュアロン『ローマ/ROMA』(2018)をイオンシネマで見る。
台北で見たときはスペイン語、先住民の言語、字幕は中国語。漢字に意識を向けつつも眼は映像そのものに向かっていた。でも今回は日本語字幕。ストーリー理解には嬉しいけれど、映像よりも字幕に意識がいきそうで、これもまた問題。

モノクロのグラデーションの豊かさに感動。破綻がない。これは凄い。モノクロフィルムの豊かな階調とは異なる、フラットながらも豊かなモノクロの発見。
映画冒頭の床に撒かれてできた水面。そこに写る矩形の空を横切る航空機。スマホ時代の縦長フォーマットなのだが、ラストで反復される空は伝統のフォーマット。
カメラは絶えず家政婦クレオの眼の周辺にある。クレオの背丈はどちらかといえば低いほう。だから、カメラも通常の大人の背丈の胸のあたりに位置している。クレオが床に座ればカメラもローポジション。これは徹底して、映画を見る私もクレオの眼となり身体となる。
まずは映画冒頭の眼。床に撒く水のショット。カメラは床と水しか見ていない。床にできた水面に映る空のショット。建物の間隙から望む矩形の空なのだが、そこに航空機が一機横切る。経済的にも移動の自由のきかない家政婦クレオの眼差しである。
クレオの眼差しは移動で際立つ。移動とはカメラの横移動。そんな場合でもカメラはクレオの眼の高さを保っている。とりわけ、ソフィアの家族たちとの浜辺の水浴シーン。
クレオはぺぺの濡れた身体をタオルで拭いながら海で戯れるソフィとパコを心配そうに見つめている。そのときのクレオの意識と一体となったカメラの、不意に海へと向かう横移動だ。この横移動は、クレオの意識・身体移動といっても過言ではない。
レシと時代描写の簡潔性。それはクレオの眼の周辺のショットの簡潔性である。客観ショット、主観ショットではなく、眼の周辺という簡潔ショット。 先日台北で見たルーカス・ドン『Girl』も眼の周辺のショットだった。新しいショットの潮流なのかもしれない。

《映画日記17》記憶を復元するVol.2(最終回)に続く。

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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