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【映画評】 ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム』

(見出し画像:ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム』)

監督のミヒャエル・ハネケ(1942〜)はドイツで生まれオーストリアで経歴を開始し、主としてフランスで仕事をしている。ウィーン大学卒業後、映画批評家を経てドイツのテレビ局で編集・脚本家、舞台演出を手掛ける。数本のテレビ映画を製作している。
1989年、初の長編映画『セブンス・コンチネント』を製作。1992年に長編第2作目となる『ベニーズ・ビデオ』、1994年に『71フラグメンツ』を発表。この3本は「感情の氷河化三部作」と言われている。
1997年製作の『ファニーゲーム』は長編第4作目にあたる。

ミヒャエル・ハネケの作風を外観すると、ヨーロッパの枠組みの中で活躍する監督と言えるだろう。ここでいう枠組みとは経歴と映画製作資本という意味であり、『71フラグメンツ』はドイツ=オーストリア合作、そしてエルフリーデ・イェリネクの小説を原作とする『ピアニスト』(2001)はヨーロッパ共同製作で、ヨーロッパ的感性、教養に満たされている。

本作『ファニーゲーム』は2001年カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した作品である。あまりにも挑発的で暴力的な内容に、一部の批評家や観客が席を立ったと言われている。だが、どのような映画であってもそのような観客はいるもので、これをもって悪評高いということはできないだろう。そうでなければ、グランプリ受賞とまではならないという気がする。

さて、本作のストーリーは次のようになる。

穏やかな夏の午後、ショーバー一家は休暇を過ごすため別荘に向かう。別荘に向かう途中、隣人のベーリンガーと挨拶を交わす。そこには白いシャツと白いズボン、白い手袋を身に着けた2人組の見知らぬ男たちがいた。別荘に着き、妻アンナは夕食の支度に取りかかり、夫ゲオルグは息子と明日のセーリングの準備を始める。そこにペーターと名乗る見知らぬ若者が訪れ、卵がなくなったから譲ってほしいとアンナに話しかける。アンナは卵を渡すが、ペーターは二度も落として割ってしまう。はじめは礼儀正しいペーターだったが、仲間のパウルが現れ態度が豹変する。三度目の訪問時、夫のゲオルグは彼の態度を見かね叱責する。2人は悪びれた態度を微塵も見せず、横柄で不愉快なものとなる。そして寛ぐように家を占領しはじめる。夜になると、2人は一家に「明日の朝まで君たちが生きていられるか賭けをしよう」と皆殺しゲームを宣言し、一家は彼らによる“ファニーゲーム”の参加者にされてしまう。残酷で悍ましいゲームが幕開けする。

(ストーリー要約)

裕福なブルジョワ家庭(夫ゲオルグ、妻アンナ、息子ジョージ、そして一匹の飼い犬)の一家惨殺へ向かういくつかの装置。隣家(名はなんだったかな?)に頼まれ卵を4個分けてもらいに来たピーターという名の青年。故意なのか偶然なのか、一家の携帯電話を水桶に落とすピーター。そこにピーターの仲間であるパウルが現れる。玄関に置いてあるゴルフクラブに興味をもち外に持ち出す。外で家族の飼い犬の吠える声があり、突如犬の声がやむ。その後、彼らと夫婦との間に卵を“分ける/分けない”ことで諍いがあり、ピーターとパウルは夫ゲオルグの脚をゴルフクラブで殴り歩けなくする。2人の男はこれが因果論的な必然であるかの様相を呈する。このあたりから2人の行動は過激さを増し始める。小波の不意の状況変化による大波への増大、自然の中の、隣家とも離れた地理的に孤立したブルジョワ家族の別荘、しかも携帯を水につけられたことによる社会との突然の切断。閉ざされた場での、家族の心理の閉塞作用がフレーム全体に緊張感を醸し出す。簡単に表現するならば、ヒチコック的題材にブニュエル的不条理の面白さをミックスしたような作品である。しかし、物語の叙述も撮り方もそのどちらでもない。飼い犬の音響のみによる殺戮表現、現実と虚構との対比、そして〈現実⇄虚構〉という思考イメージの往還。「虚構から現実に移行するのは難しく、それはブラックホールのようだ」という台詞をピーターに喋らせ、それはまさしく本作の映画装置そのものである。「1秒間に24回の嘘でありそのなかに1回の真実がある」としての映画の殺人ゲームでの査証とも思える。実際、パウルはカメラに向かい物語について語るシーンが2度ある。そしてフィルムの逆回しによる時間の遡行と物語の修正。アメリカ映画とヨーロッパ映画の両者を軽やかに越境・横断しつつも、北ドイツ的陰鬱な情景を濃密に織り込んだ作品というか、まさしくミヒャエル・ハネケ特有の作品となっている。ただ単に惨殺の胸糞悪さで終始していたなら、カンヌでグランプリは受賞しなかっただろう。

最後に、参考資料としてザビーヌ・ハーケ著『ドイツ映画』(鳥影社刊)から引用しておく。

彼の作品におけるヨーロッパ的感性は、教養のある裕福なブルジョワ階級の描写にもっぱら集中している点や、ハリウッド流の物語叙述の慣習を体系的に脱構築している点において、あきらかに認められる。越境的(トランスナショナル)なものと地域的なものとの間の新しい区別が、ヨーロッパの映画製作の二つのモデルとなっていることを証明するように、…(略)… 田舎の環境や癖のあるアウトサイダーへの北ドイツ人特有の好みによって行ったような慣習的な形式を用いた、地方や地域の感性の再発見が起こった。

(ザビーヌ・ハーケ著『ドイツ映画』)

(衣川正和 🌱amateur-kinugawa)

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 amateur🌱衣川正和
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