【映画評】 蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』 “上昇/下降”から「不在の映画」へ
(見出し画像:蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』)
あらかじめ附置されたイメージがただただ音響とともに流れてゆく。その行き着く先はモンテの破裂。ここには未知なるもの、つまりショットという暗闇がない。音響が暗闇を創出するわけでもない。音響はすでに暗闇にある。附置されたものの既存を確認する作業は虚しい。
これはアミール・ナデリ『山〈モンテ〉』(2016)の印象なのだが、この欧米的な「山」のありようと日本的な「山」の容態との違いに考えさせられた。日本的な「山」の容態とは、蔦哲一郎『祖谷物語―おくのひとー』のことであり、その素晴らしさを再確認したのだ。
蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』(2013)
蔦哲一朗作品に、新しいファンタジーを思った。しかも、ハリウッドのようなCGを使わずに。そしてオールロケ、35ミリフィルム作品。
春菜を演じた俳優・武田梨奈、そのお爺を演じたダンサー・田中泯も魅力的であり。目が離せない169分であった。
『祖谷物語―おくのひとー』(以下『祖谷物語』と略記)を見ながら劇作家・別役実の一文が頭をよぎった。
「ファンタジーは現実から飛翔する力であり、メルヘンは現実を浸食する力である。」
別役の”ファンタジー/メルヘン”の論には、2種類の運動が読み取れる。それは、前者が「現実から飛翔する力」という上昇運動であり、後者が「現実を浸食する力」という下降運動である。もちろん、”上昇/下降”が、”ファンタジー/メルヘン”と同値というわけではない。だが、『祖谷物語』に頻出する上昇と下降には、ファンタジーとメルヘンを往還する、渦巻くような、世界の得体の知れない運動を感じる。
この2つの運動は、春菜(武田梨奈)が、お爺の暮らす山から1時間かけて村の学校に下り、放課後は山を駆け上り家に戻るといった、地勢的な運動ばかりではない。突然やって来た都会の青年・江藤(大西信満)が、お爺(田中 泯)と春菜の生活に魅せられ自給自足を始めるという、物質社会(=際限のない無限・社会システム)から自給自足社会(=循環型自己完結社会システム)への、社会学的な上昇運動(物質社会を下部構造、自給自足社会を上部構造と仮構しての運動である)も含まれる。『祖谷物語』で興味深いのは、地勢的な”上昇/下降”と社会システム間の”上昇/下降”とが、あたかも違いがないかのように呈示されることだ。というよりも、その違いなど、ほとんど意味がないかのような身振りを見せている。意味があるのは、上昇と下降の差異のみである。
映画冒頭、雪が舞い上がる―雪が降るのではなく上昇が見られることに注意―山間の小屋からお爺が出てくる。お爺はイノシシを解体し山を降りる。そして雪深い山間の道路から転落した乗用車のショットとなり、乗用車の先にある雪に覆われた河原には、奇跡的に助かったひとりの女の赤ん坊を発見する。お爺は赤ん坊を抱きかかえる。あたかも竹取物語を連想させるような象徴的なショットである。タイトルの呈示の後、土間に眠る高校生となった春菜のショットへと続き、春菜は目が覚める。この目覚めはお爺の世界内で成長する自己完結型社会システムへの上昇を想起させるのだが、と同時に、都会生活で自己を見失い、お爺の領域に迷い込んできた江藤の運動を誘引させる。ここでは、山を降りるお爺や、転落した乗用車という地勢的な運動が、春菜の目覚めを介して、江藤の社会システム間の上昇運動へと引き継がれている。このことだけでも、この作品は “上昇/下降” の映画だと呟いてみたくもなるのだが、そのような実体のない表現は避けたい。では、『祖谷物語』は何の映画なのか。それは、上昇と下降による、「不在の映画」である。不在とは、「不在のお爺」である。
では、不在のお爺はどのように表現されているのか。
不在を映像として定着させることの難しさ(あるいは不可能)は、映画を撮った者、あるいは映画を見る者なら誰しもが経験しているだろう。それは、フレームには、常に在るものとして呈示され、ないものは呈示されないという、アプリオリな事態である。だが、このアプリオリな事態をパラドクスのように撮った映画ある。纐纈あやのドキュメンタリー映画『ある精肉店のはなし』(2013)である。
纐纈あや監督は不在をどのように撮ったのか。不在が纏うイデオロギーや時間を意識的に露にするというのではない。目の前にあるものを丹念に撮ることでのみ、不在はあるがままに現前し、それと共にイデオロギーや時間も立ち現れる。『ある精肉店のはなし』における不在とは、北出精肉店の先代の主人、故・北出静雄さんのことである。彼はスクリーン上には現れない。だが、かつて彼が働いた精肉作業現場(屠殺場や精肉店)を丹念に撮ることで、北出さんが受けてきた謂れ無い部落差別や生きた時代が、彼の気配と共に立ち現れる。
纐纈あや監督は、何かを感じたら、三脚を立てキャメラを向けるよう、撮影監督に指示したという。先に、「お爺の不在」と述べたが、『祖谷物語』の場合、お爺が不在というわけではない。不在どころか、赤ん坊の春菜を救ったのはお爺であり、そして育てたのもお爺である。それでも、「お爺の不在」である。
蔦哲一朗監督はこう述べる。「荒れた山道を登っても登っても、出会うのは腐った茅葺屋根の家と廃集落だけだった。もう日本にはお爺はいないのである。そこにあるのはお爺がいたというわずかな痕跡と、それを呑み込まんとする草木の存在だけであった」。
お爺の不在を顕現させるために、蔦哲一朗監督は、工藤と春菜を必要とした。工藤は物質社会から自給自足社会へ上昇する青年として、そして春菜は、下降と上昇を反復する高校生として。もちろん、工藤の上昇運動を山が容易に受け入れるわけではない。山間部の環境が破壊されたことで農作物に獣害が起き、彼の農作物も大きな被害を受ける。ところが、彼は成す術を持たない。世の中は進化したが、それと共に人間は退化し、彼はそのことを受け入れるしかない。「退化した人間は山に暮らせない」と、山を降りることを暗示したりもする。
二人の運動で注目すべきなのは、とりわけ春菜の運動である。彼女の下降と上昇という反復にも、危うさが生じ始める。春菜は男友だちから登下校にとスクーターを譲り受ける。このとき、これまで自然と一体化していた春菜の身体は、物質社会の方へと少しずつズレはじめる。そして、卒業後の進路を前にし、東京へ出ることを考える。それに呼応してか、お爺の身体にも異常が生じる。背中に苔が生え始めるのだ。まるで、春菜の身体が東京へ指向するのに抗うかのように、お爺の身体は自然へと向かう。そしてお爺は、狂気を舞うかのように雪の山へと消えていく。春菜はお爺を追うのだが、吹雪の山中でお爺を見失い、その途中、都会から来たカップルの車に拾われる。カップルは山の自然を賛美し、「人間がいると汚れる」と述べる。すると、その言葉に自然が反応したかのように、乗用車は車輪を滑らせ、崖から転落するのである。汚れの象徴であるカップルは命を落とすが、春菜のみが救われる。そこは、赤ん坊の春菜がお爺に拾われた場所であった。ここでも転落という下降運動が春菜を出現させている。
お爺を失った春菜は東京へ出ることを決意する。そして、主を失ったお爺の家屋は崩れ落ちる。
春菜は就職し、水を浄化するバクテリアの研究に従事する。だが、それを不都合とする大きなシステムから圧力が掛かり、研究は中止となる。元々、その研究に居心地の悪さを感じていた春菜は村に戻ることを決意する。村では祭りが開催され、都会に出たものたちが戻っており、旅館では宴の最中であった。春菜は旅館で一夜を明かし、目覚めると朝日に包まれた祖谷の風景が広がっていた。春菜は高校生の時と同じように、かつてお爺と生活をともにした山を駆け昇る。もちろんお爺はいない。だが、そこには、畑に水を撒くひとりの男がいた。「退化した人間は山で暮らせない」と成す術のなさを嘆き、すでに山を下りていると思っていた工藤の姿だった。それは、お爺の化身と言ってもいいだろう。中上健次の表現を借りるなら、「生は絶えず死に転成し、死は生に変転する」(小説『紀州』)。お爺の死と不在を通し、お爺は工藤の身体に変転(=化身)したのである。
この変転は、春菜が山から東京への下降を経験し、そしてお爺との自給自足の山へと再び上昇することでしかあり得なかったであろう。そして、そのことを可能にしたのは、お爺を演じた舞踏家・田中泯、そして春菜を演じた俳優であり空手家でもある武田梨奈の存在なくしては不可能であった。別役実の“メルヘン/ファンタジー”を思い浮かべたのも、この2人の異能の身体の“上昇/下降”を目にしたからである。
山は征服することのできぬメタファーとしてあり、とりわけ田中泯の身体は「不在」のメタファーとして、山と呼応していた。この場合の「不在」を「亡霊」と読み替えてもいいに違いない。
(補足)
ジブリ作品に見られる夥しい上昇運動。これは下降するための上昇であり、それはひたすら下降に奉仕するための運動である。とすれば、ジブリ作品の本質は下降運動であり、それはメルヘンといえる。日本は優れたメルヘンの産出国である。では、日本映画にファンタジー、つまり上昇する映画は存在しないのか。『祖谷物語』に上昇する映画を私は思ったのである。
下降運動としてのジブリ作品については下記webを。
(映画遊歩者:衣川正和 🌱kinugawa)