【美術評】 エリプシス|フィオナ・タン『リンネの花時計Linnaeus’ Flower Clock』を想う(金沢21世紀美術館)
花の時間は朝5時に始まり午後6時に終る。
花の明確な時間の流れと記憶。
花は忘却することがあるのだろうか。花は未来を想うことがあるのだろうか。そして過去を想うことも。
花はなにを憶えているのだろうか。
花は30年後もいまの自分を憶えているだろうか。そして30年後も憶えているであろう自分を思い浮かべることはあるのだろうか。
記憶と忘却は〈対義語=二項対立〉なのではないのではないだろうか。
世界は記憶と忘却との織物のようなものであり、記憶と忘却は時間の地形図のように幾重にも折りたたまれ襞(pli)を生み出す。
襞を開いて記憶と忘却を露わにすることはできるのだろうか。
いや、記憶はあらかじめあるものではなく、時間の反復を記憶と呼ぶにすぎないようにも思われる。
反復される時間があるのならば、反復されない時間もある。それを忘却と名づけることにしよう。つまり、記憶と忘却は等質であるということ。その意味では、二者を対義語とするのは空虚であるように思われる。
反復される時間。
反復により生じる差異も時間の地形図として再び織り込まれ、新たな襞(replis)が生み出される。
そのとき、忘却はその襞から排出される滓のようなものとなるのかもしれない。それは複層化されたデデキントの切断(Shnitt)であり、やがて時間は、終わることのない運動、永遠を生み出すだろう。
花は開き、閉じ、命に永遠が存在しないことを運命として纏っているのだが、永遠への思慕は襞という空間概念として無限運動を生じさせる。
わたしはあなたを憶えている。あなたを見ているわたしをあなたは見ていてほしい。
映像は現れては消えるから、わたしは死によりて生きぬ。
(*)「わたしは死によりて生きぬ」は、『リンネの花時計』でも引用されるリルケの詩の一節「これらのもの死によりていきぬ and these things, which live by dying.」から一部改編して引用した。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
《エリプシス|フィオナ・タン『セブンSeven』》
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