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【映画評】 イメージフォーラム・フェスティバル2013 萩原朔美『秋丸・春丸―目の中の水』、中野智代『Lily』、黒川芳朱『都市と知覚のフィールドノート1』、宮川真一『みずうみは人を呑み込む』 〝セルフ〟とは

2013年に開催されたイメージフォーラム・フェスティバル2013《創造するドキュメンタリー、無限の映画眼》
開催当時のわたしのメモを読み返していたら、〝セルフ〟についての脳内を螺旋運動するかのような迷宮思考を見つけた。
同フェスティバルはテーマ別に分類されたプログラム群で構成されているのだが、『ジャパン・トゥモロウ』部門の中のEプログラム《対象である自分 セルフドキュメンタリーの現在》
わたしはEプログラムに触発され、鑑賞後、〝セルフ〟とは何かと問うてみた。

セルフとは何か、他者と切り離した純粋なセルフなど存在するのか。
セルフがuniqueであることへの疑義である。

〈Eプログラム〉……全作品2013年制作、デジタル・カラー作品。
 萩原朔美『秋丸・春丸…目の中の水』
 中野智代『Lily』(一般公募作品
 黒川芳朱『都市と知覚のフィールドノート1』
 宮川真一『みずうみは人を呑み込む』一般公募作品(大賞受賞作)

〝セルフ〟をタームとして、上記4作品について簡単に述べてみたい。

(写真はすべてイメージフォーラム・フェスティバルから)


*)萩原朔美『秋丸・春丸―目の中の水』(20分)
撮影・編集:石原康臣、音楽:内藤正彦、撮影協力:坂口真理子、ワタリウム美術館

イメージフォーラムフェス2013萩原朔美『秋丸・春丸…目の中の水』

左目を失明した萩原朔美監督。2012年に『目の中の水』を制作しているのだが、本作品はその続編の意味合いを持つ作品である。
制作経緯について萩原監督はこう述べている。
「何故左目だけが失明したのだろうか、という疑問に答える旅の映像化だ。澁澤龍彦の『高丘親王航海記』に出てくる、まるで双子のような秋丸と春丸が念頭にあった。春丸の出現によって秋丸が忽然と居なくなる。何故なのだ。同じものは、一緒にはいられない。片方の旅の始まりである。それが映画『秋丸・春丸』なのだ。」

「目で聞き、目で書く」。これはドキュメンタリーフィルム作家であるニコラ・ブーヴィエ(Nicolas Bouvier)の言葉である。ゴダールも「目で聞く」と『ゴダールのリア王』で述べている。つまり、映画とは〝目〟の暗喩のことであると理解してもいいだろう。

健常者という前提においてだが、わたしたちは世界を左右二つの目で見ている。だが、映画は(3Dは別として)、レンズという一つの目の透過像に過ぎない。萩原は左目を失明し、右目という一つの目で世界と対峙する過程で気づく。右目だけになったわたしは映画なのだと。片眼を失った萩原が目にする世界は、暗喩を超えて、映画そのものとなった。

だが、映画そのものとなった彼の目は、「見る」こと、「見える」ことの、〈見る/見える〉の双対性とでもいえる、終わることのない複雑な問題を呈示しはじめる。〈見る/見える〉という〝セルフ〟における双対性という問題系である。「〈見る/見える〉〝セルフ〟とは何者なのか?」という終わりのない問題系である。萩原にとっての〝セルフ〟は静かに分裂しはじめる。

*)中野智代『Lily』(11分)
出演/後藤里奈

イメージフォーラムフェス2013中野智代『Lily』

「わたしを撮ってもらえませんか?」。
こんなメールをもらったら、わたしはどうするだろうか。

本作品はこんな気まぐれのメールから始まる。送り主の名はLily。中野智代監督は一人の少女から溢れ出す〝わたし(Lily)〟を撮りはじめる。
「一人の人間の思考はどのように形成されたのか」。
監督は彼女の日々を撮り続ける中から探していくことにした。

世界はあるようにしてある。
これは、世界は目の前に呈示されたようにしてある、ということではなく、さらに一歩進んで、目の前のその向こうにある世界を見る、という意味おいて、世界はあるようにしてあるということ。

作品冒頭のナレーション「わたしを撮ってもらえませんか? 気まぐれのメールから始まった」。
この作品を見る者は、このナレーションの呈示により、ある判断を強いられる。これはドキュメントなのか、それともフィクションなのかと。
撮られることで消滅したい少女と、撮ることを引き受けた監督。少女は撮られるだけでなく、自らもビデオカメラを手にし、自己を撮る。少女はビデオによる遺物を制作しようとしているのだろうか。

「いつかわたしの残骸を誰かに見つけてほしい」と呟く少女による自らのクローズアップ、そしてと監督による少女のショット。作品に現れる二重の〝セルフ〟映像。
少女は自ら手にしたビデオカメラに向かって独白する。その映像を見るわたしは、ビデオカメラによる目の主体とは誰なのか、と自己発問する。それは自己を撮る少女なのか、それとも作品を見る観客なのか。
少女に眼差しを向けているのはいったい誰なのか。目の持つ人称は定かでない。

本作品はLilyという少女のドキュメント(あるいはフィクション)=遺物であるばかりでなく、眼差しにおける〝セルフ〟の試論であるようにも思えた。
暖/寒によるアクセントある色調構成も素晴らしい。

*)黒川芳朱『都市と知覚のフィールドノート1』(28分)
出演:黒川芳朱、諸橋精光、撮影:諸橋精光、大屋光代、作曲・演奏:大南匠

イメージフォーラムフェス2013黒川芳朱『都市と知覚のフィールドノート1』

セルフドキュメントの最も素朴な形態は、カメラのレンズを、絶えず自己に向けているということである。
わたしたち人間は背後に目を持たない。そこで、掌サイズのビデオカメラを手にした黒川は、自らにトリックを仕掛ける。
ビデオカメラの液晶は背後の目である。
液晶を見ながら後ろ向きに歩行するというのだ。背後に目を獲得した黒川。第三の目を獲得した身体の動きと脳内への情報の連結による知覚作用。歩行する第三の目=セルフ。都市と自己との間に、静かにズレが生じ始める〝セルフ〟。

*)宮川真一『みずうみは人を呑み込む』(44分)

イメージフォーラムフェス2013宮川真一『みずうみは人を呑み込む』

監督である宮川は藤浪にビデオによる往復書簡を始めようと映像を送りつけるのだが、あっさりと断られる。宮川にとり、他者である藤浪は如何なる存在であるのか。それは、宮川の投影としての藤波、仮構された藤波である。藤波の死は宮川の幻想としての死である。存在しない他者の死を仮構することで宮川自身の過去と惜別し、それを自分自身の未来へと繋げる。自己というセルフ、そして他者。そこにあるのは図式〝セルフ⇆他者〟という往還により支えられる複層としての〝セルフ〟である。

映画ラストの湖のシーンは素晴らしい。8ミリカメラで撮影された映像とそれをビデオでとらえた映像。この二重の映像が霞ヶ浦に張られたスクリーンへ投影される。幾層もの映像がドキュメンタリーとフィクションの枠を超えて見る者に呈示され、〝セルフ〟が他者へと越境するイメージに重なる圧巻のシーンであった。


(命題)
《「自己⇆他者」の止むことのない往還運動が〝セルフ〟である》
についての私見。

セルフを映像で呈示するのはそれほど難しいことではない。iPhonのカメラ機能を自身に向ければそこに映し出される自己はセルフポートレートであるし、ビデオカメラを自身に向ければセルフドキュメント映像になる。それらを他者に送信したり、YouTubeにアップしたりすれば公共圏へとセルフを放出できる。この文でさえも、たとえわたしという閉じられた領域内にあるとはいえ、コード化された言語で書かれた以上、他者に読まれるかもしれないという意味でセルフの呈示という公共性をすでに獲得しているといえるだろう。〈自己⇆他者〉という往還運動。

ところで他者についてだが、自己にとっての他者は純粋に他者として存在するのだろうか。たとえば、わたしが他者を観察し論じようとするとき、他者を純粋に論じることはできるのかということ。それは、わたしという自己は他者のすべてを知ることはできないとか、他者と自己との相互の分かち合いは不可能だからというようなことではなく(もちろんそれもあるが)、わたしによって観察され、論じられる他者とは、わたしの反映でもある。つまり、わたしと切り離された他者の純粋性はないのではないか、という問いと分からないままの結末が《対象である自分 セルフドキュメンタリーの現在》で呈示されている。他者は、わたしなくしては存在しないし、わたしも他者なくしては存在しない。わたしによって観察され、論じられる他者とは、鏡に映したわたしという自己の歪な鏡像であると理解することも可能である。
ならば、自己を、宮川真一『みずうみは人を呑み込む』で見たように、他者へと意識的に越境させてみるのも興味深いことではないか。中野智代『Lily』のように、他者を介して〝セルフ〟ドキュメンタリーを制作するということも可能である。
Eプログラムには、切れ切れに断片化された他者があった。断片化され破片のようになった他者にわたしの記憶を重ねることで、わたしの鏡像としての〝他者〟が立ち現れる。そこにおける他者とは、重層化するわたし、分裂するわたしの立ち現れとしてあった。Eプログラム《対象である自分 セルフドキュメンタリーの現在》を鑑賞しながら、そんな〝セルフ〟のことを思ったのである。

ただ、本私見において、わたしは「自己」という用語をアプリオリに用いてしまっている。つまり、「自己」を無定義用語として使用しているのである。さらに「他者」という用語についても同じことが言える。
「自己」を規定するには「他者」が必要だし、「他者」を規定するには「自己」が必要であるという用語の曖昧さ、という弁解で、本稿を締めたい。

(日曜映画批評家:🌱kinugawa)

文中でふれたニコラ・ブーヴィエに関して

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