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【映画評】 アレックス・トンプソン『セント・フランシス』
ある批評家が、アレックス・トンプソン『セント・フランシス』(2019)“以前/以降”として映画は語られることになるだろう、と述べていた。
女性は初潮から閉経まで月に1度、平均1週間弱は生理という生命現象の中に生きている。とすれば、日常生活を描く物語に生理が描かれないのは不自然といえる。その中でナプキン、タンポン、生理カップといった生理用品が画面に現れないのも、寝起きのベッドのシーツに血液が付着したシーンが現れないのも不自然である。日常の食事は描かれるのに、同じく日常である生理は描かれることは稀である。
映像として生理が描かれるとすれば、それはある特別な意味を纏うことになる。それは、わたしたちにとり(とりわけ映像表現にとり)、生理は特殊な意味作用を纏っており、日常とはいくぶんズレた物語を生成する。つまり、映像物語の日常は、そのズレを隠すことをコードとする暗黙の了解があるということ。映像で血を見せることがあれば、それは殺人であるとかの事件であり、生理という日常は描く必要はないもの、あるいは忌避・回避、隠すものとしてのコードである。物語とは、日常の特異点、つまり物語性の表出というコードが前提にある。生理が日常の特異点であるとしても、それは単なる日常ではない。女性の体内の粘膜からの、痛みを伴う精神的にも異変をきたす出血であり、食事や眠りや労働という日常とは根本的に異なる。物語性の表出とは位相がズレた位置にあると、わたしたちは認識してきた。それゆえ、映像として表出の必要がないもの、または隠すべきもの、なんらかの了解事項としてきた。だが、それは#MeToo運動以降大きくなったのだが、生理も、生きることの質量、生命現象としてあるのだから、物語性の表出とされるべきものと醸成され始めた。
不思議なことに、世界から女性の生理がなくなれば人類は滅びるという、そのことがいまだに自明とはなっていない、もしくは気づかないふりをしている人が多くいる。不可思議な社会である。そんな意味で、先の批評家の述べたことは了解すべきことである。『セント・フランシス』はそのことに気づかせてくれる映画だった。序盤は表現としての胡散臭さをいくぶん感じたのだが、物語が進むにつれ、言葉では表現できない恐れや不安、他者への伝達言語が見出せないことへの鬱病的日常が映像として伝わってくる思いがした。知らぬ間に映画内に引き込まれている自分に驚きを覚えた。映画を語る特異点解消の瞬間だった。
本作の主役であり、脚本も担当したケリー・オサリヴァンの、幼年時代に他者と共有することの叶わなかった内省の声を聞いているようだった。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
アレックス・トンプソン『セント・フランシス』予告編
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