【映画評】 ジョナス・メカス関連の日記風メモ
2013,5.24
ジョナス・メカス『ウォールデン』(原題)Walden (Diaries, Notes, and Sketches)16ミリ(デジタル版)180分(1969)
昨年90歳を迎えた詩人でアメリカのカウンター・カルチャーのヒーロー、ジョナス・メカスは映画に日記というスタイルを生み出した。『ウォールデン』は彼の最初の日記映画であり、1960年代ニューヨークのアヴァンギャルド・アートシーンの壮大な記録となっている。個人映画におけるターニングポイントとなった作品。
「1950年からわたしは映画日記を撮りつづけている。ボレックスを片手に歩き回り、目の前にある現実、状況や友人たち、ニューヨーク、季節のうつりかわりを掴もうとしている。10コマ撮るときもあれば、10秒撮るときも、10分撮るときさえある。あるいは何も撮らないときも。ひとが日記を書くのは、追想の過程である。椅子に座り、その日を振り返り、すべてを書き記す。映画(キャメラ)日記を撮りつづけるということは、じかに(キャメラで)反応するということ。今、この瞬間に。今つかみ撮らなければ、何もないのだ。戻って後で撮るのは再現すること、出来事や感情までも。ことが起こるままに今撮るには道具(この場合はボレックス)を熟知していなければならない。この道具はわたしが反応する現実を記録し、しかもわたしが反応するとき、感情の状態を(そしてすべての記憶を)記録しなければならない。それは、その場でわたしがキャメラで撮影中に構成(編集)をすべてやり遂げなければならない。日記にあるすべてのフッテージはキャメラから出て来た通りである。編集室で保存することはその形式と内容を破壊することに外ならない。」
ウォーデンには時系列に数珠つながりになった1956年から1969年までの素材が入っている。サウンドトラックには同じ時期に集めた音源を使った。声、地下鉄、街路の騒音、ショパンの断片(わたしはロマンチックなのだ)、そしてその他の暗示的なそしてとるに足らない音も。 (www.jonasmekasfilms.comホームページより)
他の実験映画同様、ジョナス・メカスの日本での作品受容は稀である。それには上映を受け入れる劇場が少ないということもあるのだが、ストム・ソゴーで述べたように、実験映画に対する日本での軽視、無理解という要因が大きいように思える。
そしてもうひとつの要因、映像としてのメカス作品の特異性を忘れてはならない。光の揺らぎ、点滅、二重写し、ブレ・ボケ、特有の短いカット割り、それらはひとコマひとコマが作品の重要な要素である。そこに何かを付け加えても、そこから何かを差し引いても、それはメカス作品ではなくなってしまう。わたしを含めて、英語需要度の低い日本での上映では字幕スーパーが不可欠である。言葉の詩人であり、映像の詩人でもあるメカス作品では、字幕スーパーは作品理解を助けるとしても、本来の作品からは変位した作品受容になるという矛盾が生じる。そのためもあり、彼の作品が日本で上映されたのは、『リトアニアへの旅の追憶』(原題)Reminiscences of a Journey to Lithuania(1972)、『ロストロストロスト』(原題)Lost, Lost, Lost(1967)の二本のみである。今回の上映に当っては、メカスの許可を得たということで、『ウォールデン』の日本語字幕付上映となった。
彼は映画の中で述べる。作品に解釈はいらない、目の前にあるものとして見れば良い。メカスの目を通し、目の前の世界は光として見る者に映る。1秒間に24コマというフィルム特有の世界が目の前に映し出されている。
2019.1.13
メカスは映画日記の中で述べる。「セルロイドの中で、必死に、たった一つの感動的なショットを探すなど無駄なことだ。ここにいる一人の男。彼の作ったすべてのフレーム、すべてのシーン、すべてのアイデアはこの上なく感動的である」
2019.3.3
ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』(2012)
テクストの視覚化。それは声ではなく、眼として呈示され、わたしたち鑑賞者に、読むこと、無音の声を要請する。興味深いのは、テクストの時間である。鑑賞者の無音の声を十分に保障しているかと思えば、瞬間として、つまり、無音の声すら拒否するかのような視覚化もあったりして、それは、思考のリズム、スピードの緩急を要請しているのだと思えた。
そして、バローズやギンズバーグだったらこんな風に読むのかな(本当は、彼らの声を耳にしたことはことなんてないのだけれど)、と英文を無音の声で読んでみると、なんだかとても気持ちよくなる。
それは、黙読ではなく、無音の声という身体性でもあるのだから、その現れとしての気持ち良さなんだと思う。メカスの作り出すショットが、黙読ではなく、「無音の声=身体性」を要請しているのだろうか。
ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』は様々なことを呈示している。 フィルムエディター。メカスの作品はコマという語がふさわしいように思える。コマは切断を前提としている。そして、切断がなければコマとは言わない。デデキントの切断→有理数の実数への拡大。
カントールは有理数列の部分列の極限として実数への拡大を見出したけれど、デデキントは切断により実数へと拡大した。それにより、いたるところ不連続な有理数体からの脱却を可能にした。では、フィルムエディターによる切断は何を可能にするのか。
それは時間の連続を見出すということ。コマとコマの間という思考はどこへと向かうのか。メカスは、そのことをどのように考えていたのか。
フィルムエディターによる作業は「Outtakes=拾遺集」ということ。メカスと吉増剛造、映画人と詩人の連句のコラボをリアルタイムで立ち会いたかった。
エディターによるコマの切断により、逆説的に連続を生み出すけれど、それでもなお、コマの間という不連続の意識は払拭できないなあ。意識下に沈む、ということなのかなあ。
こんな映画唯物論、すでに語りつくされているようにも思うけれど、メカスを見ると、そうではないと疼いてくる。だからメカスは厄介なのだ。
『幸せな人生からの拾遺集』の中でメカスが自転車に乗るショトがあるのだが、それが、ホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』の自転車のショットを思わせる。どちらもフィルムが感光した質量を喪失したような光に満ちていて、もしかすると、『影の列車』の家族とは、メカスたちのことなのではないのかと思うのだ。製作年を考えればそれは矛盾することなのだが、そんな夢想さえ許してくれるのがメカス作品の層。いつまでも誠光社で上映されたジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』が眼のあたりを漂っている。
「これは少数の人間が、あるいは一人、二人の人間が、時間を見つけて、ゆっくり見る映画だ」。なるほど、メカスの映画とはこういうことなのだ。
構造云々はともかく、メカスにとり、作品が家になっていることは間違いない。 清原惟『わたしたちの家』を思ってみる。
メカスの家とは、「現在」としての家であり、時間的・空間的広がりとしての家でもある。これがメカス作品の秀逸なところである。 これを超える作品を、わたしの視界はいまだ見出していない。
この家とは、亡命の地とも言えるのではないか。
メカスにとり、フィルムのコマとは、過去であり、「修復も改訂もアップデート」(D・E・ジェームズ)もできない保存された断片なのだ。だからこそ、フィルムエディターによるフィルムの切断と接続のクローズアップをいくども見せる必要があるのであり、この行為こそが「家」となるのだろう。
メカスにとり「拾遺集」とは知覚の層の集合体である。
「映画日記はそこに存在しているものを映し出し、日記映画はそこに存在しないものを映し出す。一時的と損失に対するあらゆる償いを補足するものである「喪失」は、この映画の生産メソッドとそのメソッドによって決定される形式の特性、語るべきストーリーに刻まれる」D・E・ジェームズ
2019.3.13
ジョナス・メカスは「映画であなたのポートレイトを撮りたい」と、カール・テオ・ドライヤーにもちかけた。同じことを、ストローブ=ユイレにももちかけたのだろうか。「コマ撮り」の人、メカスが。
ドライヤーのコマは『ウォルデン』に見ることができるけれど、ストローブ=ユイレはどうだったろうか。『ウォルデン』の上映、ないだろうな。
メカスの映画にはフェイドインもフェイドアウトもない。始まりも終わりもない、「コマ撮り」なのに連続ということ。わたしたち見る者に呼応する身体の連続性である映画。
ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームズ 静止した映画』をよむ。メカスの世界がほどけてゆく感覚。
文字による日記では出来事の同時発生は担保できないが、映画日記ではそれが可能である。日記はいつも過去完了形として記述される。だが俳句はどうだろう。詠む者の目の周りと記述との同時性としての吟行。メカスが俳句に興味を覚えたのは、このことによるのではないのか。
だが俳句は、目の周りの情景の客観的叙述であったとしても、絶えず「私」を構成要素の中心としている。ところがメカスの日記では、そのような「私」の存在は、それほど明確ではないように思える。
2019.3.30
ジョナス・メカス『Sleepless Nights Stories』(2011)@誠光社
わたしのちっぽけなメカス体験では断定はできないけれど、これまで見たメカスとの違いに驚嘆。メカスといえば用語〈コマ〉の使用が定型になると思うのだが、〈コマ〉という光子との共通性では捉えきれない豊饒な物語があるように思えた。その意味では、メカスが『千夜一夜物語』から着想を得たと述べたように、複数の語り部によるメカス版『千夜一夜物語』である。
リスボンのシーンでのセザリオ・エヴォラの歌声、そして「幼年期の物語」での吉増剛造の朗読を思わせるメカスの詩作過程、これはまさしくひとつのNight Storyだ。
『Sleepless Nights Stories』がジョナス・メカスの他作と異なるのは、編集の即時性からくるのではないだろうか。そのヒントが「映画日記」にあったような気がするが、確かめなくては。
ミゲル・ゴメス『千夜一夜物語』(2015)を思い出す。 ゴメスが世界を語るうえでシェへラザード姫を必要としたのは、経済破綻に陥ったポルトガルの、とりわけ貧しい市井の人々の断片化された説話群が、いつしか〈連帯〉となるという意志の表明のためであったと思う。メカスにとっても、来歴の異なる語り部による説話は、単一ではなく多数者による〈連帯〉という意味なのだろうか。
オリジナルの変革と断片の排除。ビデオによるワンシーン、ワンカットは排除を生み出した。
2019.4.15
メカスはジャック・ドゥミ『ローラ』(1960)を、光の美しさを描いた映画と評した。これはメカス作品にも当てはまる。光はコマ、コマの明滅としてあることをわたしに教えてくれたのはメカスの作品だった。
2019.4.17
ジョナス・メカスは映画の背後にある、一条の光を探す。それがショット、つまり“瞬間”なのだ。瞬間だからこそ、そこに信をおき、そこにいる人間を、光の中にある人間を見ようとする。
ジョナス・メカスはヨーロッパの「Cogito,Ergo,Sum」による精神支配に懐疑的だ。精神はビートニクにより目を開く。人間は何かを喋ろうとする前に、次に何についてしゃべろうとするのか必ずしも知る必要はない。これはユングの言う「人間は、ただ、本来のものに変わることができるだけだ」ということのようだ。
ジョナス・メカスはジャック・スミスに恋してる。スミスは禅を信奉する弓師のように弓を射る。弓を射る的のその先を越し、〝はるか向こう〟を見る。それでいてスミスは的を射る。そんなスミスに恋してる。
ジャン・ルーシュのピエール・ジュノーへのコメント「いまならわれわれは、なんだって映画にできる。しかし、テーマが必要だ」。ジョナス・メカスは、リーコックのために、ルーシュのコメントの後半を言い換えた。「しかし、人間の存在することが必要だ」。これはメカス自身への言い換えでもある。そこで重要なのは、人々をどう理解するのかは、映画を見る「われわれ」次第ということだ。
2019.4.25
「ジャック・スミスの潜在意識は、われわれ自身の潜在意識のさまざまな部分に触れ、その上をよぎる。それは生きているものと死んだ世代に九通なあるものに触れ、それをあらわにする。」(『メカスの映画日記』p134)
数年前にイメージフォーラム・フェスでジャック・スミス特集があったと記憶しているが、見る機会は、もうおとずれないだろうね。
2019.5.7
「カメラマンの傍に立ち、カメラが回っている間中、カメラに接続した電線のようになるグリフィスをメカスは想像する。では、カメラに直接触れるメカスは、カメラが回っている間中、パーフォレーションを搔く爪、それともフィルムの前の回転式シャッターとなって光とともにフィルムに忍び込むのだろうか。」(メカス)
メカスにとり、“映画”は“映画”としてあるのではない。“映画の夕べ”としてある。映画作家と機材と関係者を含めての上映、意思のある上映のことである。だから、誠光社でのメカス作品の上映形態は、その思想を継いだという意味で有意義だった
メカス『映画日記』に『生まれてはみたけれど』のことが書かれている。「天才的なひらめきを持った芸術家は一時的なものを転換して、その作品を永遠に問題となりうるものにするのだ」。メカスはこの文脈の最後にブッダの言葉を引用している「芸術の力を過小評価してはならぬ」(p.335)。ブッダは本当にこういうことを言ったのだろうか。それとも、アメリカ人のブッダ解釈、深読みなのだろうか。
2019.5.29
ジョナス・メカス『映画日記』350ページ。
「理性に対する想像力の勝利」「知識に対する経験の勝利」「知覚の逆転」「対立する」「否定する」に対する批判。つまり「vs」という対の概念批判。それは、深化、純化、拡大、延長、追加の過程。バランスを崩すことのない程度に、人間がどれほど拡大、追加しうるか、ということ。
メカスは同書97ページにおいて、ヨーロッパ精神における「理性」の優越を批判している。ゴダール『女と男のいる舗道』(62)への批判の中でのメカスの見解である。引用してみる。「フランスおよびヨーロッパの大部分に致命的な支配力をふるっているのが、この精神(知性、理性)の優越だからだ。我椎う、故に我あり(Cogito,Ergo,Sum)。アメリカでは、精神はビートによって目を開く。人間は何かをしゃべる前に、次に何をしゃべろうとしているのか必ずしも知ってはいないし、知るひつようもない。言葉も行為も、死んであらわれるべきではないし、熟考よって殺されるべきでもない。」そのあと、「精神に対する私の〝攻撃〟は、誤解されることが多い」と述べる。そして次のように結論づける。「〝意識的な〟精神は充分に持ってきた。いま必要なのは、〝無意識の〟精神である」
2019.6.4
マヤ・デレン『陸地にて』(原題)At Land(サイレント)(1944)@寒梅館
海岸に打ち寄せる波の鮮烈なイメージ。七里圭『サロメの娘』の波のイメージは、この『陸地にて』につながる。生成と消滅、原初の波だ。
マヤ・デレン演じる分身の豊かさ。
マヤ・デレンと歩くひとりの男。若い青年なのだが、いつの間にかジョン・ケージに変わっている。
タイトル〈陸地にて(At Land)〉ということは陸地でない他処を要請するのだが、やはり「海」ということになるのだろうか。マヤ・デレン演じる女は海の女神、心霊的存在。それは、マヤ・デレンの分身としての女神が見る白昼夢であり、分身はさらなる分身を見ることになる。
マヤ・デレンの分身の様相が七里圭作品を想起させる。それは、「わたし」が「あなた」に分身、ということでもあるのだが、それよりも、間・作品という七里圭作品の生み出す事態のこと。作品を構成する細胞群が分裂し新たな作品へと分身する。そしてその分身自体が、元の作品へと侵入・結合し、再び分裂を繰り返すということ。
マヤ・デレンの名はメカスの『映画日記』で知っていたのだが、作品を見るのは今回が初めて。『映画日記』には、デレンの名が10箇所ほど出てくる。メカスは、1959年2月25日の日記に『夜の深み』について書いている。断片を拾い上げると「彼女の個人的な潜在意識である以上に一つの普遍的な無意識の世界」「血まみれの月から突き出た儀式用ナイフの輝きを持つ刃をつけた真冬の空の明晰さ」「時空間の裂け目、現代神話の映像、白黒の儀式を巡るデレンの内面の旅のあとをたどりながら彼女の全作品のコンテクストに照らし合わした場合に、最も理解しやすい」「虜にするのはまず視覚的リズムの密度であり、知性ではない」「われわれの内部に作用する機が熟するのを、映画の魂に宿って待っている」→これは最高の賛辞だ!
2019.6.4
ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』(原題)Outtakes from the happy man (2012)@寒梅館
2000年までのメカス作品に使われなくなったシーンの数々と、メカスによる編集する様子を捉えた映像で構成。
断片化された映像の集積と光。人生とは連続した時間ではなく、断片の集積であり、どこか儚い。でも、そこには光が溢れている。その光の拾遺集である。
ジョナス・メカスはイメージの背後にある、一条の光を探す。それがショット、つまり“瞬間”なのだ。瞬間だからこそ、そこに信をおき、そこにいる人間を、光の中にある人間を見ようとする。
断片化されたイメージの中で異質なのが、クロースアップで捉えられたメカスによるフィルム編集。フィルムの切断音、削音、フィルムエディターによる接続音、リールの回転音、その生々しさ。メカスは〈 I HAD NOWHERE TO GO 〉。寄る辺なき人生で確かなのは、編集音の生々しさだ。その行為がメカスにとっての、寄る辺の〈家〉なのだ。
2019.6.11
トニー・コンラッド『フリッカー』The Flicker(1966)@寒梅館
メカスのインタビューに、コンラッドは次のように答える。「体験する一本のフィルムです。……目にスクリーン上の光のパターンを判断させる通常の方法ではなく、むしろ、直接見ている人の内部に実像を生み出すように、目に作用するのです」「面や色ではなく、頻度に解消される光の形態にかかわって制作しました」「コマはスヌケとクロミです。フィルムは実際には50のセクションに分かれていて、それぞれがスヌケとクロミの一定のリズムによるパターンの繰り返しで構成されています。それなのに色が見えるという人がたくさんいます。それは少しも不思議ではないのです」(メカス『映画日記』207-208ページ)
2019.7.5
七里圭『ドキュメント・音から作る映画』50min(1915)@ルーメンギャラリー
前方スクリーンと後方の演奏者で観客を挟み打ちにするライブや、映画のサウンドトラックを大小さまざまなスピーカーにライブで振り分けて立体音響を操るアクースモニウム上映。音声はいつの間にか映像からズレ、分断され、コラージュされる。このドキュメント自体が、映像と音を併せる不思議を探る遊戯的な作品である。
ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』におけるフィルム編集という、メカスの手の作業を思い出した。フィルムの切断音、削音、フィルムエディターによる接続音、リールの回転音。そこに映し出されるのは手による切断という死と接続という再生の生々しさだった。七里監督の本作も、ドキュメントという資料に終わらない、監督や檜垣氏らの手の作業の生々しさの呈示だと思えた。そしていまひとつの発見は、七里監督の眼が檜垣氏の手と耳の作業を経由し、それが再び七里監督の空間へと広がる眼となることだった。
ここに書いた内容と重複する部分がありますが、
下記の【映画評】を読んでいただければ幸いです。
【映画評】ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』を編むhttps://note.com/maas_cinema/n/n1dc802a2ca37
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)