【映画評】 ハル・ハートリー監督『トラスト・ミー』 無条件の互酬性
(写真『トラスト・ミー』はGucchi's Free Schoolより)
華奢な女の身体があり、重力の因果律を知悉しているのかその法則に身を任せる。
女の名はマリア(エイドリアン・シェリー)。
妊娠して高校を中退。成り行きで、廃屋で出会った男を信じ、重力に身をまかせ建造物から落下する。
この簡潔な落下は美しい。
この美しさは、「trust」という無条件の互酬性。いや、マリアの互酬性願望からくる、無防備さという美しさなのだ。いや、もうひとつ、マリアの、重力との親和性の現れではないのか、とも思えた。しかも、重力の女性性ということ。
ハル・ハートリー監督『トラスト・ミー(Trust )』(1990)を見ながら、「重力」と「女性性」のことを考えてしまった。
重力は女性性を纏っている。こう思ったのは、マリアに、唐突にもフランスの思想家シモーヌ・ヴェーユを思い起こしてしまったからでもあるのだが、男性に重力はふさわしくないというわたしの思い込みに過ぎないのかも。
重力は、世界への軽やかな身振りといさぎよさを併せ持たなければならない。それを、「世界は不可思議である」という命題を「無条件に受け入れる」こと、と言い換えてもいい。これは男性には不可能である、とわたしには思える。
たとえば、清原惟『わたしたちの家』(2017)。
サナと透子が寝床を並べ、天井を見つめながら語りあう印象的なシーンがある。サナは、いま生きている世界を「夢かもしれない」と語り、透子は自分の存在を「誰も証明できない」と言う。そして「重力に負けないように、低い方へ流れてしまう、川みたいに」とも。重力と自己の存在。重力に抗うことはできない自然体として、二人の女はここに在るという「無条件性」。〈在る〉という、これ自体が宇宙である。自己が〈在る〉ことで宇宙は満たされている、ということだ。ここにはフランシス・ポンジュの世界を垣間見ることもできるのだが、シモーヌ・ヴェーユが述べるように、「なにごとが起ころうと、宇宙は満たされている」のだ。満たされているという充溢した宇宙。そこには、存在のたえまない呼吸があり、マリアの落下は、そのことに呼応していないだろうか。
なんだか禅問答のようになってしまった。重力から、落下に戻そう。
マリアの落下は美しい。こんなにも美しい落下を、わたしは二度見たことになる。一度目はドン・ユエ『迫り来る嵐』(2017)、二度目が『トラスト・ミー』。
『迫り来る嵐』のイェンズと『トラスト・ミー』のマリアの落下。両者ともファムファタルの要素を薄く滲ませているのだが、そこには東洋と西洋の陰と陽の違いがある。『迫り来る嵐』で見るのは、あやしげなカフェの女給イェンズ(ジャン・イーイェン)の落下である。イェンズの落下にはどこか匂い立つ妖艶さがあり、彼女の吐息が聞こえてくるようで、じっとりとした湿り気があるという〈陰〉の様相があった。それに対し、マリアの場合、「trust」とい無条件の互酬性、きっとあなたは、あなたの腕にわたしを受け止めてくれるという、オプティミスト〈陽〉の落下であった。そうでなければ、「信じて」が、マリアの落下につながるはずもない。
『トラスト・ミー』はマリアの落下を呈示することで、マリアのファムファタル性を宣言したとも言える。なぜなら、落下がなければ、マリアの恋人マシュー(マーティン・ドノバン)は父親の手榴弾を持ち出すほどには、マリアを自己の運命に引きつけなかっただろうから。
映画的意匠だけの中味のない落下を見ることはよくある。だが、『迫り来る嵐』や『トラスト・ミー』のように、物語を揺るがす落下はそうあるものではない。これが、重力を受け入れる、ということの意味でもあるのだ。
(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)
『ハル・ハートリー作品集』予告編
清原惟『わたしたちの家』予告編
ドン・ユエ『迫り来る嵐』予告編
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