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【映画評】 草野なつか『王国(あるいはその家について)』 Domains、家

草野なつか『王国(あるいはその家について)』(2018)

映画冒頭、検事による調書の朗読。亜希に事実確認をする事務的作業。映画を見るわたしたちは、審判への不意の立会人となるかのようだ。

幼い頃の亜希(澁谷麻美)と野土香(笠島智)。ふたりが台風の日に、一枚のシーツと椅子で作り上げたお城とその周辺を想像で作り上げた空間。それは少女の幻視の空間に過ぎないのだが、それは、ふたりだけの言語を介入させることで作り上げた、閉領域(本作では領土と名づけた)としての空間である。亜希はその領土を「王国」と名づける。そこに高野文子のコミックに登場する子どもたちが幻視する、他者の介入のできない幼年の王国を見いだすこともできるのだが、その領土には、暗号回路による言語空間という、謎めいた問題も秘めていた。
その王国に、何かの力でその暗号を除去し、暗号から厳格な意味・制度へと言語空間を広げると、開かれた領土、つまり「家」が出現する。それは幻視という領土から家という実体空間への、変位・拡大である。

家は意味を有する実体である。
意味を有することで、つまり、コード化された言葉を纏うとで、やがては意味そのものに復讐され、窮屈になり、王国は瓦解する危険性を孕むことになる。少なくとも亜希はそう考えている。
ここで田村隆一の詩『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』を想起してもいいだろう。はたして、言葉は人を幸せにするのか。それは、俳優たちにより読み返され、反復される脚本の実景らしき風景のショットの不意の挿入で、言語空間が、身体性を纏うことからはじまる。意味を有することで静かに振動しはじめ、崩壊の予兆をきたす家。家とは、ホラー機械なのかもしれない。

そして、本作にはもうひとつの王国がある。脚本のシーン番号を告げる音声により作られる王国。
映画を見るわたしたちは、音声と俳優の表情で呈示されたシーン番号から、観客自らがショットを創生することを要請される。それはいまひとつの領土の出現であり、他者の介入のできない王国としてあるように思えた。これは、ペドロ・コスタ『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』におけるストローブとユイレの、ペドロ・コスタですらただ見つめるしかなかった強固な……強固であるがゆえに危うさを孕んだ……王国と同質なのではないか、とも思えた。

本作は脚本が内包する自由で自律的な可能態と、言葉の身体への移行を見出す映画であり、本作『王国』の英題が「Kingdom」ではなく、「Domains」であることがよく理解できる。 Domainsとしての存在のわたしたち、つまり、Domains〈言葉⇆身体〉領土の存在としてのわたしたちということであり、子どものいる家族、つまり「家」という、言葉と身体の往還による、不気味な関係性がDomainsの強度を際立たせ、ある種の痙攣に抗えない世界の様態に、わたしはただ狼狽するしかなかった。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

草野なつか『王国(あるいはその家について)』予告編


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