【映画評】 ヴィクトル・コサコフスキー『GUNDA/グンダ』 見事なまでのダイレクトシネマ
ヴィクトル・コサコフスキー『GUNDA/グンダ』(2020)
ヴィクトル・コサコフスキー作品を見るのは本作がはじめて、というより監督の名すら知らなかった。
本作のホームページによると、レニングラードでドキュメンタリーのカメラアシスタント、助監督、編集者として映画のキャリアをスタート。
その後、モスクワで脚本と演出を学び、哲学者アレクセイ・フェドロビッチへ捧げた『Losev』(1989)で長編映画デビュー。
問題を抱えた農民の家族を追った『The Belovs』(1992)
ドキュメンタリー映画製作者ルドミラ・スタヌキナスとパヴェル・コーガンを追った『Pavel & Lyalya』(1998)
地球で対角線上に位置する2つの場所を撮影した『Long Live the Antipodes!』(2011)
地球上で様々にその形態を変える「水」の姿をハイスペックカメラで捉えた『Aquarela』(2018)
を監督している。
ほとんどの作品で、撮影、脚本、編集のすべてを手がける。現在はベルリンを拠点に、未来の映画監督やドキュメンタリー作家の育成に携わっているという。
本作はある農場で暮らす母ブタのグンダとその周辺、つまりグンダの子ブタたち、ニワトリ、牛の群れを描いたドキュメンタリー作品である。ナレーション、字幕、音楽は一切ない。いわゆる、映画を見る者の誘動システムを可能な限り排したダイレクトシネマの形式をとる。描かれるのは、必死に立ち上がり乳を求める生まれたばかりの子ブタたち、大地を駆け巡る牛の群れ、弱々しくも大地を踏みしめるニワトリ、子ブタを守ろうとするグンダ、彼らの行動を見事なまでに捉える立体的な音響(ドルビーアトモスDolby Atmos)。そこにあるのは、動物たちの息遣いやコミュニケーションであり、わたしたちが解釈しようとする要素は排除される。それゆえ、わたしたちは映像と音響に全神経を集中させなければならない。それは、人間という存在とは何か、という問いを生み出すことになる。
人間の存在を象徴するシーンが二度あった。中盤の電流を流した鉄線、そして終盤、グンダをひたすら追いかける10分以上の長回しのシーンに機械音とともに突如現れる運搬用ケージをつけた農業車両。前者は電流を流した鉄線に触れたためか、グンダの驚きと悲鳴のような鳴き声、後者は農業車両の登場の後、グンダはあたりを見渡しブタ小屋を覗き込む。不穏な様子を察したのか、カメラに向かって進み何かを訴えるかのように見つめ、そしてカメラの横を通り過ぎる。ブタの子どもたちはもういない。飼い主により子ブタたちはグンダから引き離され、巣立ちをして別の小屋に移されたのか、それとも売られてしまったのか。フレーム内に飼い主は一切登場しないのだが、鉄線と農業車両を登場させることで、人間による動物の支配の象徴的シーンを出現させた監督の作法は感動的なほど秀逸だった。監督にとり「人間として作った中で最もパーソナルで重要な」作品なのである(監督へのインタビューより)。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
ヴィクトル・コサコフスキー『GUNDA/グンダ』予告編