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【映画評】 ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』 を編む
映画日記はそこに存在しているものを映し出し、日記映画はそこに存在しないものを映し出す。一時的と損失に対するあらゆる償いを補足するものである「喪失」は、この映画の生産メソッドとそのメソッドによって決定される形式の特性、語るべきストーリーに刻まれる。
ジョナス・メカス『幸せな人生からの拾遺集』(2012)(Outtakes from the life of a happy man)をどのように語ればいいのか、わたしにはそれが見出せない。
『ウォールデン』(1969)、『リトアニアへの旅の追憶』(1971-1972)、『ロストロストロスト』(1976)ならば時間軸や社会背景をもとにジョナス・メカスを語ればいいのだろうが、遺作となる本作にそれが相応しいのか躊躇わずにいられないし、おそらくそうではないだろう。
本作の構成が「拾遺集(Outtakes)」という美学形式なのだから、わたしも気のむくままに、思考の断片を編んでみようと思う。それが『幸せな人生からの拾遺集』について語ったことになるのかは心許ないのだが、とりあえず、いまはそうすることしかできない。
『幸せな人生からの拾遺集』観賞後、1週間ほど、iPadに思いつくことを断片として綴ってみた。つまり、『幸せな人生からの拾遺集』を紐解き、言葉の断片として短冊にし、iPadという箱にひとまずしまっておこうと思ったのである。
それから数年が経ち、そのまま眠らせておくのもつまらないと思い、箱にしまっておいた語り断片を甦らせることにした。
『幸せな人生からの拾遺集』を編み直す試み。
ほつれもあるだろうが、編みの不完全を〈味〉と感じていただければ幸いである。
テクストの視覚化。それは声ではなく、眼として呈示され、わたしたち鑑賞者に、読むこと、つまり鑑賞者の無音の声を要請する。ここで言う「テクスト」とは、1960年代・1970年頃から、15歳の少女ダイアンがメカスに送ってきた手紙のことである。それは、彼女自身のことやその暮らしについて綴った“書簡日記”だった。メカスは、それを元に映画を作りたいと思ったという。だが、それを映画化することはなくしまっておいたのだが、『幸せな人生からの拾遺集』を編集しているとき、“撮らなかった映画”のテクストとしてダイアンの“書簡日記”を引き出してきたのである。(註1)
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