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【映画評】 グレタ・ガーウィグ『レディ・バード』 ノア・バームバックからグレタ・ガーウィグへ、そして違和

ノア・バームバック『フランシス・ハ』(2012)でヒロインを演じたグレタ・ガーウィグ。
彼女が監督した『レディ・バード』を見ようと思ったのは、本作品が彼女の監督第一作であり、アジアやヨーロッパ映画にないアメリカン・ニューウェーブの新たな出現を予感したからである。

本題に入る前に、『フランシス・ハ』から『レディ・バード』へと至る流れを記しておく。

 ノア・バームバック『フランシス・ハ』(2012)
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 ノア・バームバック『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(2014)
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 グレタ・ガーウィグ『レディ・バード』(2017)

実は『フランシス・ハ』は期待外れの作品だった。さらにノア・バームバックの次の作品『ヤング・アダルト・ニューヨーク』も評判ほどには興味を覚える作品ではなかった。わたしの映画日記を読み返してみると、両作品ともメタクソに貶している。

『フランシス・ハ』についてはこんな印象を記している。

ノア・バームバック『フランシス、ハ』Netflix-1
(写真=Netflixより『フランシス・ハ』)

女友人ソフィー(ミッキー・サムナー)とルームシェアし、毎日を楽しく過ごしているプロのダンサーを目指している27歳の見習いダンサーであるフランシス(グレタ・ガーウィグ)。ダンサーとしてなかなか芽が出ず、恋人との関係も切れてしまう。それに追い討ちをかけるように、女友だちの同棲によりルームシェアも解消となった。自分の居場所を求めてニューヨークの街を転々とする。パーティーの席で、部屋の両端に静かに佇んでいる見知らぬ男女が不意に心を通わせるという、あるかなきかの出会いを求めているフランシスなのだが、眼の前の風景は何も変わらない。彼女は自分を見つめ直し、新たな行動へ移すという物語。

『フランシス・ハ』の作品webに、小規模映画『フランシス・ハ』はアメリカ中の映画ファンを熱狂させた〝奇跡の映画〟とある。
なるほど、不器用だけれどチャーミングなフランシス。こんな女性がいたらいいなとわたしも思う。いや、わたしでなくても、彼女に共感を覚える人は多いだろう。だが、映画として見る限り、彼女は生きることにそれほど切迫感を感じているようには思えない。

彼女の視線はニューヨークに留まらず、パリへのプチ旅行、さらに、かつてルームシェアをしていた女友だちのいる東京へと向けられる。これら都市は、名を告げただけでなんとなくファッショナブルでエレガント。躍動的な都市の様相が浮かび上がる。一度はそんな都市に眼差しを向けるのだが、どこか違和感を覚えながらも軽やかに都市の表層を漂うフランシス。だが、はやり自分の居場所はニューヨークだと気づく。

ニューヨークに戻っても生活そのものは変わらない。ダンサーとしても芽がでない。理想には到底到達するようには思えないけれど、演劇の演出の仕事を得てそれなりのハッピー感を享受するという物語にすぎない。

この映画は〝奇跡〟でも何でもない。世界に自己を投影させることの心地良さを適度に保障された映画に過ぎない。こんな作品があっても悪くはないだろうけれど、映画館に足を運ぶほどの〝奇跡の映画〟ではないと感じたのだ。

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』も基本的には同じである。『フランシス・ハ』はプロのダンサーを目指す物語、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』8年間かけてもドキュメンタリーを完成させられない中年の映画監督の物語。

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』の主人公であり、純粋映画という完成の見えない40歳代後半のドキュメンタリー映画監督ジョシュ(ベン・スティラー)。それに対し、まずは作品の完成形があり、それに向かって捏造と時系列の変更をも辞さない野心家で、ときには他人を利用してでも有名になりたい若いドキュメンタリー映画監督の卵ジェイミー(アダム・ドライバー)。

ノア・バームバック『ヤング・アダルト・ニューヨーク』シネマトゥデイ-1
(写真=Netflixより『ヤング・アダルト・ニューヨーク』)

ジョシュは真理を追求するあまり、編集も資金調達ままならないタイプ。ジェイミーは高完成度のドキュメンタリーを作り上げるためには捏造も辞さないタイプ。
社会は後者の方に軍配をあげるのだけれど、前者も純粋系として妻との愛を確認する。「人はそれぞれで、そのそれぞれに価値・意味がある」という、アプリオリだけど、わたしにはそう簡単に馴染んでいいのかという命題が気になる。

『フランシス、ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』の両作品とも、理想を阻む社会的要因、そして経済面での不安金という点で共通点がある。それだけではない。自己に対する純粋性の追求による、人生の行き詰まりという点においても。もちろん、このことがつまらないのではない。世界に対する眼差しがエレガント(挫折しても恢復可能態という人生)であり、ソフィストケイトされたイメージとしてのニューヨークが物語に先立ってあることに、見ているわたしは苛立つのだ。
こんなにもスマートでオシャレなアメリカ的ヒューマニズム映画を続けざまに見てしまったわたしは、ノア・バームバック作品鑑賞はもういいかな、と思ったのである。

こんな風にケチョンケチョンに貶しているわたしはいったい何様なのだ、と自戒もするけれど、これは期待したものへの反駁的現れでもあるからちょっと手厳しい。

さて、『レディ・バード』なのだが、人生との折り合いかたというか、監督のグレタ・ガーウィグがヒロインを演じた『フランシス・ハ』のDNAを継承しているかのような女子高生クリスティン(シアーシャ・ローナン)の一年間の物語。

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(写真=シネマトゥデイより『レディ・バード』)

なんら刺激のない地方都市サクラメントに暮らすクリスティン(通称レディ・バード)。
彼女の夢はひとつ、サクラメントを出てニューヨークの大学に入学すること。しかし学友たちはサクラメントの大学に推薦入学を決め、母親も土地の市立大学を進める。そんな中、心を寄せていた男友だちがゲイであることを知り絶望する。さらに、もうひとり好きになった男友だちとの初めてのセックス。男に馬乗りになるクリスティンなのだが、痛みを覚えないうちに男は終わってしまう。でも「わたしは処女を捨てあなたの童貞を奪ったのね」とクリスティン。ところが「童貞は奪われていないよ」と男友だち。「君が初めてじゃないもの。君で何人目か分からない」。「処女|童貞」は思い込みに過ぎなかった。
さらに女友だちとのドライブでオナニーの話。風呂のジャグジーに股間をあてる快楽。ある意味ぶっ飛んだ映画のようにも思えるのだが、そこは女性監督らしく少しもいやらしくない日常譚に仕上げている。いわば監督の自伝とも思えるのだが、『フランシス・ハ』と同じく、なんとなくファッショナブルで、見ていて心地良すぎるではないか。

クリスティンは補欠合格でニューヨークの大学に進学。土地を離れることでわかった母親との和解、サクラメントへの想い。自分の名はクリスティンではなく「レディ・バード」と粋がっていた彼女なのだが、ニューヨークで新しく出会った男に、「わたしはクリスティン」と名乗る。「レディ・バード」を捨て、本名の「クリスティン」。なんだか、既に台本はできてますよとばかりの拍子抜けの予定調和的自己肯定。
ああ、これでいいのだろうか。『フランシス・ハ』→『ヤング・アダルト・ニューヨーク』→『レディ・バード』へと流れる違和感でしかないスマートな作品スタイル。

『レディ・バード』のヒロインを演じたシアーシャ・ローナンの瑞々しさには魅力を覚えたのだが、こんな結論を見るためにわたしは一時間半も座っていたのではないと思った。
でも、シアーシャ・ローナンの出演する次なる作品は見たい。

『フランシス・ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』『レディ・バード』。
魅力的な俳優がいっぱい出演しているのに、こんなにも貶していいものだろうかと自戒もするのだが…。

グレタ・ガーウィグ主演『ハンナだけど、生きていく!』についての記事

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

予告編
『フランシス、ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』『レディ・バード』





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 amateur🌱衣川正和
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