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パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

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身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。
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記事一覧

《映画日記14》 ゴダール『勝手に逃げろ/人生』、ドゥパルドン『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』、ほか

(見出し画像:ゴダール『勝手に逃げろ/人生』) 本文は 《映画日記13》枝優花、小田香、エミール・クストリッツァ、金子修二作品 の続編です。 この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。 わが家から遠いので

【美術批評】 Project〝Mirrors〟稲垣智子展

(見出し画像:稲垣智子、ビデオ作品《桜》) Project “Mirrors” 稲垣智子展@京都芸術センター 会場は、京都芸術センターの「ギャラリー南」「ギャラリー北」「水飲み場」で展開された。 * ギャラリー南「はざまをひらく」キュレーション・高嶋 慈 《間―あいだ》(2011)ビデオ作品 似たような服装、髪型、背丈、顔つきの二人の女性A、Bがテーブルを挟み向かい合っている。Aは風の強い日にミサちゃんを公園で見かけたと詰め寄る。だがBは、風の強い日には公園には行かな

【音楽】 ボサノバ、ユーミン、カーボ・ヴェルデの音楽

(見出し画像:タチアーナのアルバム『あの日にかえりたい』) 新しく本棚を購入し、書籍、CD、DVDを整理した。部屋はいくぶんすっきりした。 わが家のCD。クラシック、ラテン系、フレンチポップス、日本のポップス。 ラテン系はタンゴとボサノバ。タンゴは戦前録音の歌入りタンゴ、ボサノバはジョアン・ジルベルト、カエターノ・ベローゾ、ナラ・レオン。 フレンチ・ポップスはミレール・ファルメール、パトリシア・カース、エンゾの女性陣ばかり。 日本のポップスは大貫妙子、元ちとせ、カヒミカリ

《映画日記11》 三隅研次作品、ブルンヒルデ・ポムゼン、ほか

(見出し画像:『ゲッペルスと私』) 本エッセイは 《映画日記10》アルゼンチンの監督マティアス・ピニェイロ(覚書) の続編です。 このエッセイは私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。 * 三隅研次『大菩薩峠』(1960) 大映男優祭が開催されている。市川雷蔵主演作品を見る。 「女は魔物」。机龍之介の台詞なのだが、魔物

【パフォーマンス】 梅田哲也「COMPOSITE: VARIATIONS(の元)/外/4人」@京都のライブハウス「外」

足を動かす、歩く、その異形のような運動がすでにあった。屋外での身体運動をライブハウス「外」の内部に凝縮。始まりもなく終わりもなく。それが日常であり、その凝縮が「外」に還元される。 フラスコ内の水の落下運動。万有引力は全てが落下するというシステム。水に音はないが、落下することで音を発生させる。そして水の振動。振動は電気信号に変換され、空気振動という振動の反復を生む。さらに電気信号は磁場を作り、そこにも振動が発生する。 すべては物理学による日常の解析と解体。

【映画・音楽評】 リュック・フェラーリ……ほとんど何もない Presque rien

リュック・フェラーリLuc Ferrari(1929〜2005) フランスの作曲家、映像作家。特に電子音楽で知られる。 映像作家としてのフェラーリ作品が上映される機会は、日本ではほとんどない。研究機関や特別な上映会においてのみである。 リュック・フェラーリ『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』 Presque rien ou le désir de vivre ドイツ(1972・73) 第一部 コース・メジャン Le Causse Méjean 第二部 ラルザック高原

【美術評】 マヤ・ワタナベ 《Suspended States 滞留》 Part.2 『停滞』

本稿は マヤ・ワタナベ『Suspended States 滞留』Part.1『崩壊』の続編です。 マヤ・ワタナベ『停滞』9分ループ(2018) Covid19による都市閉鎖、自主隔離、自由な往来の制限といった行動抑制は、二項対立〈生存/非生存〉における二者択一という選択である。その状況においてわたしたちは、行動抑制による〈生存〉を選択したのだ。生存という生の持続のためのある種の選択の要請。戦後、とりわけ日本において、このような生の選択を迫られることがあっただろうか。 こ

【美術評】 マヤ・ワタナベ 《Suspended States 滞留》 Part.1 『崩壊』

マヤ・ワタナベ『崩壊』9分ループ(2017) 映像インスタレーション 本作の映像インスタレーションは生と死へと向ける視点への接近なのだが、見ること自体への言及でもある。世界は視線によって分節化され、そのことで世界は意味の存在を現し、視線によって世界は解体される。 “マクロ” と “ミクロ” を同時に見ることはできないということ。 この稿では、本作を、眼・見ることの観点から述べてみたい。 “表/裏” 二面のスクリーン。”表/裏” と言っても、どちらが表なのか裏なのかは意味

【ライブ】 clammbon 20th Anniversary「tour triology」

×月×日 これから《clammbon 20th Anniversary「tour triology」》に大阪へ。 クラムボンは原田郁子の歌唱と詞に惚れてファンになったのだが、コンサートには一度も行ったことがない。今回がはじめてで少し興奮している。原田郁子の歌声にわたしはどうなるのか。 わたしはコミュ障ではないのだが、人混みは気にならないのに、知る人のいない集まりには行きたくない。たとえ行ったとしても、その中の会話に入るのが嫌だ。入る勇気がないわけではないけれど、見知らぬ人

【美術評】 ダグ・エイケン『 i am in you』金沢21世紀美術館

ダグ・エイケン『i am in you』(2000年) 中央に1つ、周辺に4つのスクリーンで構成された映像インスタレーションである。 アメリカ郊外の日常的な風景が映し出されている。タイトル『 i am in you』は英語的に日常的な表現なのか、それとも詩のような表現なのか、わたしの英語知識では判然としない。 「わたしはいる、あなたの中に」 わたしという存在はあなたの中に本当に在るのだろうか。そして、在るとすればどのように在るのだろうか。物語の登場人物は少女のみ。そのほか

【映画評】 ペドロ・マイア監督〜アナログ・シネマ〜WASTE FILM(考)

ペドロ・マイア監督〜WASTE〜アナログ・シネマ〜覚書 1983年ポルトガルで生まれ、現在はベルリンに在住する監督ペドロ・マイア(Pedro Maia)。 アナログ・シネマを主なコンセプトとして作品を制作する前衛映像作家である。 アナログ・シネマとはデジタル・シネマの対概念でもあるのだが、いわゆる〈フィルム/デジタル〉という対立項に回収されるものではない。 〈フィルム←→デジタル〉変換ラボで働くペドロ・マイア。 彼がアナログの技術性・芸術性を自覚的にアプローチしたのは2

【ダンス評】 モノクロームサーカス『TROPE』、『P_O_O_L』他

京都のダンスカンパニー、モノクロームサーカス(MonochromeCircus)。2013年の公演なのだが、『TROPE』を不意に思い出すことがある。それは、日常の道具の意味について。道具はそれ自体としてあるのではなく、わたしたち使用者との関係で予め意味が付与されており……たとえば椅子は腰掛けるための道具、ハンマーは打ちつけるための道具……わたしたちの存在なくして、道具に意味はない。それは道具に限ったことではないだろう。近代(そして現代)の人間中心主義の世界においては、人間と

【映画評】 熊切和嘉監督『光の音色 THE BACK HORN Film』

紋別を舞台にした『私の男』、函館を舞台にした『海炭市叙景』。両作品で北海道出身者であればこそ可能な北の鮮烈な映像を呈示した熊切和嘉。彼と撮影監督・近藤龍一の生み出す映像には、明治以降の人間模様の堆積した時間、生とは自然との落差でしかないという厳しい地誌、それらが大気の中に溶け込んだ風土としての残酷なほどの美しさであった。そんな稀有な映像美を生み出した熊切和嘉監督が、撮影監督に橋本清明を迎え、オルタナティブロックバンド《THE BACK HORN》とタッグを組んだ映像作品が『光

【美術評】 原田裕規『Waiting for』についてのレポート@金沢21世紀美術館

写真=金沢21世紀美術館 以下の文は金沢21世紀美術館|アルベルト14で開催されている原田裕規『Waiting for』の映像作品についてのレポートです。 会期:2021.6.15〜2021.10.10 (レポート1) 荒涼とした風景がゆるやかなカメラ移動で映し出される。湖や草木もまばらな彩度を落とした地上の風景。水や草木といった有機物は存在するものの、人間はおろか動物でさえ生きてゆけるのだろうか不明な大地。大気の移動を感じさせる風の音はあっただろうか。思い出そうとして