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【美術批評】 Project〝Mirrors〟稲垣智子展

(見出し画像:稲垣智子、ビデオ作品《桜》)

Project “Mirrors” 稲垣智子展@京都芸術センター

「Project “Mirrors”」は「展覧会ドラフト2013」において、2名の審査員により選出された展覧会企画です。本展は稲垣智子の「個展」ですが、稲垣智子(美術作家)・髙嶋慈(批評家)・多田智美(編集者)の3名による対話を通して、複数の個性や立ち位置を組み込むことで成立します。
プロジェクトの名称である「Mirrors(=複数の鏡)」には、多様な意味が込められています。稲垣作品の素材として多く用いられる「鏡」は、現代社会のクリティカルな反映であり、同一性と差異の間を揺れ動く鏡像を紡ぎだします。同時に、本プロジェクトによって実現される展覧会やカタログ制作も、プロジェクトメンバーの互いを映し出す「鏡」となっています。

(Project〝Mirrors〟稲垣智子展案内分より。京都芸術センター)

会場は、京都芸術センターの「ギャラリー南」「ギャラリー北」「水飲み場」で展開された。

* ギャラリー南「はざまをひらく」キュレーション・高嶋 慈

《間―あいだ》(2011)ビデオ作品
似たような服装、髪型、背丈、顔つきの二人の女性A、Bがテーブルを挟み向かい合っている。Aは風の強い日にミサちゃんを公園で見かけたと詰め寄る。だがBは、風の強い日には公園には行かないと言う。見る者は二人の対話の断片から、どちらが真実なのかを定めようとする。そして、二人が互いのことをミサちゃんと呼び合っていることに気づく。ミサちゃんとは誰なのか。ちょっとした思い違のずれの蓄積が次第に裂け目へと至るが、二人の問答は逆の道をたどり始め、逆の順に配列される。“ズレ/共振”、“真/偽”、決定“可能/不可能”、“自己/他者”。

(稲垣智子『間ーあいだ』)
(稲垣智子『間ーあいだ』)

《最後のデザート》(2001)インスタレーション+ビデオ作品
インスタレーション(大量に陳列されたスイーツ)……食品衛生法ギリギリまで添加された防腐剤、人工着色料。会期中腐らない美しく甘い香りを放つスイーツ。造花。
ビデオ(キスを繰り返すカップル)……キスを交わし合っているように見えるカップルだが、女性が塗っている口紅を舐めているだけの男性。1本のリップを使い果たすまでキスを繰り返す。自動化された消費社会とジェンダー。

(稲垣智子『最後のデザート』)

《Dish Danse》(2006)ビデオ作品
回転椅子に腰掛けたOL。回転しながら100円ショップで売られている紙の皿を周囲にまき散らす。皿をまき散らすものの、紙製なので割れない。ストレスはいっそう溜まり、皿を撒くという行為を続けるしかない。

《桜》(2009)ビデオ作品
満開の桜の木の下、首を左右に振り否定の姿勢を見せる人物。左右に振れる髪で人物の表情は隠され、性別は必ずしも明確ではないが男のように思える。突然その動作にあわせ、他者の平手とパンパンという音が重なり、否定の姿勢は暴力に変わる。この動作の反復はしばらく続き、平手が消えると左右に首を振る動作と叩く音のみが残る。やがて叩く音は銃声(作者によると銃声ということだが、装置の関係なのか、銃声には聞こえない)に変わり、人物は振りを大きくし画面から消える。映像は満開の桜の木のみになる。(見出し画像を参照)

* ギャラリー北「beautiful sʌ́n」キュレーション・稲垣智子

《Forcing House》(2013)映像インスタレーション
《Greenhouse》(2003)を現在に沿って作り直した作品。温室の壁面に、閉じ込められた女性の映像。中に入ると床には鉢植えの植物が並べられ、天井、側面はマジックミラーになっている。窮屈そうに身体を動かす女性、鉢植えの植物、鑑賞者、それらがマジックミラーに映り、見る者は鏡面の映像に包まれる。閉ざされた女性というセクシュアリティー、実像と虚像、人工と自然、日常と非日常、見るわたしと見られているわたし。それらが反転、あるいはそれらの境界の不在。

*「水飲み場」にて 

《Doors》(2013)ビデオ作品
1年ごとに継ぎ足されて未来に続く映像作品。今回が1作目。京都芸術センターの水飲み場横にある小さな部屋。その部屋のドアに映し出されたドアの映像。ひとりの女性(作者)がドアを開け部屋の中に入る。“実/虚”の対は鏡像関係。毎年更新されることで年老いてゆく作者と京都芸術センターという場。

「鏡と交合は人間を増殖するがゆえにいまわしい」、と『アングロ・アメリカ百科事典』に載っているとビオイ=カサレスは述べたという。ここにはビオイ=カサレスの小さな思い違いがあり、正確には「交合と鏡はいまわしい」である。グノーシス派にとり、可視の宇宙は幻想か誤謬であり、鏡と父性は忌わしく、宇宙を増殖し、拡散させるからであるという。(ボルヘス『伝記集』鼓 直 訳より)

ボルヘスの『伝記集』は若い頃、集英社版の篠田一士の訳で読んだことがある。そこには、「鏡と女は人間の数をふやすがゆえに忌わしい」とあったように記憶している。上記の引用は鼓 直の訳なのだが、訳者が違っても、これほどまでに大きな違いがあるとは思えないので念のため調べてみると、「鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌わしい」となっていた。わたしの記憶では、「性交」は「女」に変わっている。記憶という閉ざされた書物の中で、「性交」が数十年の時を経て「女」に転位している。閉ざされた書物の中では文字が融解し別な文字に変わるという、いかにもボルヘスを読む者の記憶の移り変わりのようにも思える。だが、記憶の変異というものはよくあることで、それは鏡に映された姿のようなものであり、鏡像とは自己の忠実な反映とは限らない。そんな意味で、鏡が忌わしいのはなにもグノーシス派ばかりではないだろう。わたしたちも、“実/虚”、“自己/他者”、“自然/人工”、“接続/切断”などと、鏡像という増殖するがゆえの決定 “可能性/不可能性” というなす術もない事態に、鏡は忌わしいと、呟いてみたくもなる。そんな呟きに共振するのが、京都芸術センターで開催された《Project〝Mirrors〟稲垣智子展》ではないのだろうかと、ふと思った。もっとも、稲垣智子展については作品解説で述べたこと以上でも以下でもないからなにも付け加えることはないのだが、そこに別の言葉や事象を添わせることで、違ったアスペクトが発生するのではないかと期待もしたい。だから、もう少し、この展覧会とつき合うことにしよう。もちろん、作品を目にした後のわたしの記憶の中で、つまり、自己内の“リアル/フィクション”間を揺れ動く諸相と記憶内増殖の中で、という意味においてである。

稲垣智子《間―あいだ》。「あいだ」と記されている「間」。なぜ「あいだ」なのだろう。高嶋慈のキュレーションには「はざまをひらく」とあるが、ひとまずはその読み「はざま」をリセットしてみる。
「あいだ」「あわい」「はざま」「かん」。「あいだ」はひとまずかたわらに置いておこう。「あわい」は二人のあいだに漂う柔らかな空気というイメージがあり、ビデオの内容からこれはないだろう。「はざま」は2人のあいだの狭い空間、裂け目であり、思い違いのズレの蓄積が暴力という決定的な裂け目を生じさせる。「かん」は2人のあいだのインター(関係)、いわば(関係の)糸である。これは二者の共振といえる。もちろんこの場合の共振とは、二者の了解といった幸福な共鳴とは限らず、苛立ちや異和の相互振幅という歓迎されざる共振(この作品の場合、「平手で相手の頬を叩く」という行為)である。いわば、(関係の)糸による緊張の蓄積から平手を相手の頬に向けるという関係が生じさせる。そう理解すると、稲垣智子の「間」とは、「はざま」「かん」の両者の意味を含むように思われる。彼女はそれを、意味の多義性を含みながらもニュートラルでもある「あいだ」、という表現で結んでいるのかもしれない。こんなふうに考えると、《間―あいだ》は、意識や感情の積み重ねで発生する「はざま」という静止した状態から、「かん」という運動へと移行する時系列を呈示した作品といえる。それは、意識や感情という〝静〟から、ダンスという〝動〟へと向かう時系列のように思える。「平手で相手の頬を叩く」というアクション、これはダンスへの接近であり、《共振=ダンスへの接近》と仮説してみたくなる。だが、この共振はダンスへと接近するものの、ダンスに回収されることを回避する。それは、AとBとが曖昧になることで、共振が回収される場所を失うからである。スクリーン正面には、よく似た背丈、顔立ち、髪型、服装の若い女性二人がテーブルを挟み座っている。二人はある出来事について話しているらしい。AはBに、「風の強い日に公園でミサちゃんを見た」という。ところがBは「わたしはなにもしていない。風の強い日には公園には行かない」という。会話は「いた」「いない」にとどまらず、いつの間にか、公園の時計が「5時15分で止っていた」「7時15分で止っていた」といいう議論に移行するのだが、公園にいたことが、ある種の裏切り行為であることが二人の対話の断片から読みとれる。そして注意深く観察してみると、互いのことを「ミサちゃん」と呼んでいることに気づく。そして平手で相手の頬を叩いた後、物語は逆の経路を辿り、これまでの問答は逆の順に配列される。6~7分の作品なのだが、始点と終点とが接続されることにより、物語は初めと終わりのないループ、反復を形成する。二人の対話はダイアローグだったのか、それとも自己へのモノローグに過ぎないのか。共振がなにものにも回収されないという事態を生じさせることで、決定は不可能になる。AとBは鏡面関係にあるともいえるし、そうでないともいえる。鏡面に映った自己の姿、それはひとつの側面でしかなく(あるいは側面ですらなく)、自己を決定するものではない。世界も鏡面上の自己のように、わたしたちの目の前に決定不可能として現れている。やはり、鏡は忌まわしい。

と書いて思うのだが、英国の美術学校で学び、デビューも英国という彼女の作品群は、欧米の美術史の批評言語に回収されてしまう。そのことは決して批判されることではないのだが、外国語に翻訳不可能な、日本語の古層にしか変換できない美術表現はないものだろうか。そんな美術を待ち望みたいと思う。

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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 amateur🌱衣川正和
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