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幸せには◯◯◯がある
誰もが思うこと。
「幸せになりたい」
なりたくない人なんていないと思う。
僕も幸福に満ちた状態で暮らしたいし、安心な生活を送りたいです。
そして、”多くを求めなければ”幸せになることは、割と簡単だと思います。
ただ、これは実際にある程度の幸せを手に入れて思ったのですが、この幸せって、
「”段階”がある」
と僕は思っています。
どういうことかというと、最も幸福なときって、
「”他人”の幸せを願うことができる」
と思うんですね。
例えば、芸能人が結婚・出産されたというニュース、知人や友人が何かを成し遂げたという報告。
そういった便りを聞くと、こちらまで嬉しくなってしまう。
正直、僕は、ここまで達してはいません。
他人の嬉しい報告を聞いたとき、取り残された気分になったり、「負けた」気になってしまうこともある。
最近、少しずつ一緒に喜べるようになってきた気がしますが、まだまだ人の幸せを願える心の余裕を持ててはいないかもしれない。
ただ、上でも書いた通り、昔と比べると、ある程度「幸せ」ではあるのもまたそうなんです。
「人生をやり直せる」権利を手に入れたとしても、別にやり直したいとも思わない。
この一定水準の幸福は、ただ収入の範囲内で生活して、地道に仕事をして、それなりに人付き合いをして、という普通のことを長く繰り返しただけで手に入りました。
だからやはり、「幸せ」って、余計な欲を出しておかしなことをしなければ、簡単に手に入るし、そしてそれには段階があるのだと思う。
僕の幸せは、多分、「大中小」で言えば、「中程度」の幸せ。
「他人の幸福を願える」という高度な段階にあるのではなく「自分の幸福を保つ」という段階にあると思います。
この2つの「幸福」の間の差は、かなり大きいように感じます。
もっともっと自分をレベルアップさせないといけない。
お金がすべてというわけではないけれど、資産もより必要ですし、より人間関係も充実させていく必要があると思う。
そしてそれらを求めるのであれば、自分から行動して、それを掴みにいかないといけないよね。
これまでの経験で、人生の充足は、別に能動的に動かなくても、ある程度までならなんとなく生きていてもそれを手にできることがわかりました。
これ以上の充足は、少し努力が必要だし、時間もかかると思う。
僕にとっては努力より時間の方が必要かもしれない。
「人の不幸は蜜の味」
というし、SNSは常にヘイトで溢れているし、他人の幸福を心から願える人なんてかなり少ないとは思うのですが、この人生が終わるまでにはそんな境地に達したいものですね。
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