エッセイストと、そうでない人たち
前々から気になっていた、この本を購入した。
ふだんから僕は、気になる本を見つけると、iPhoneデフォルトのリマインダーアプリにメモをしておく。しかもそのうえで、「まずは図書館で借りて試しに読んでみる本」、「Kindle(電子書籍)で買う本」、「紙として手元に残しておく本」などと、3つのグループにわけて管理している。
以前に書店かどこかでこのタイトルが目に入り、Amazonでの評価もよかったため、「Kindle購入予備軍」として長らくスマホに記録していた。ふと、なにか新しい本でも買おうかな、とリマインダーをスクロールしていたときに、「最近、noteをあまり書けていないな」と模索している時期だったこともあって、妙に惹かれたというわけだ。
偉そうに書評記事らしく書き始めてはいるものの、僕はまだこの本を読み終えていない。もちろん、一から十まで内容を知ったうえで咀嚼して書くのが理想的なのだけれど、それを上回る勢いで、読みながら脳内に感想が溢れ出てきた。もはや、未読かどうかなんてどうでもよくなった。
それは、“はじめに”から共感の連続だった。
そう、そう。エッセイを書くことは、仕事でも目標でもだれかと競うものでもなく、「生き方」そのものなんだよな、と。
ところで、いま僕はこのnoteを、実家からほどちかいショッピングモール内のカフェで書いている。平日の夕方ということもあって、2人組の女子高校生がたのしそうに話しながら勉強(?)をしていたり、ベビーカーを引き連れた若いお母さんたちがパフェを口いっぱいに頬張りながら談笑していたり、僕とおなじように社会人らしい男性が机いっぱいに参考書をひろげながら資格試験の勉強をしたりしている。
ここにいる人たちのなかで、いったいどれだけの人が日常的にエッセイを書くのだろうか。
エッセイなんて書かなくても、生きていくのに問題はない。だけれども、書けば書くほど幸せに気づける、それがエッセイだ。まとまったかたちで表現できるから、達成感もある。つねに頭の片隅に“エッセイ”を意識しておくことで、多少の不幸や面倒ごとでも「ネタにしよう」と前向きになれる。
エッセイを書くということは、「人生のなかにその幸せを見出し、積み重ねていくこと」なのだとこの本で知った。
ちなみに、勝手な憶測で書くのだけれど、“エッセイスト”と“ミニマリスト”は、無関係なようでじつはとても似ていると思う。エッセイになるかどうか、という判断軸で日頃から日常をふるいにかけながら生きている。つねに取捨選択を迫られているうえ、そもそも部屋が散らかっていたり、持ち物が多くて疲弊したりしているとそれどころではいかない。
僕は、エッセイストになる、というほど文才やセンスが備わっているとは思わない。それでも、エッセイスト「のように」生きることで、僕自身がどんなふうに生きたいのか、どんな人間になりたいのかを意識することができる。それだけでじゅうぶん、満たされている。
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