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僕たちがどれだけ、我が儘になれるか

久しぶりに、図書館についての話を書きたい。

僕がはたらく大学図書館では、だいたいどこもそうだとはおもうのだが、大学に属していない一般の人であっても利用できることになっている。もちろん一部利用に制限はあるものの、きほんてきには館内をじゆうに見てまわれるし、貸出こそできないものの複写(コピー)はとれるので、あんがい利用者はおおい。

ところで、館内をたずねてきた一般の方に、僕たちスタッフがまず最初に、というかこれが唯一ではあるが、やってもらうこととして「利用申請書への記入」がある。

名称のとおり、いかにもお役所の書類のようだが本当にそう。名前からはじまり、性別、住所、緊急用の連絡先と、今日来た利用の目的をかんたんに書いてもらう。

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先日、あれは40〜50歳ぐらいだろうか、見た目は威厳ある風貌なのだが、なかみは意外と若々しそうなおじさまがカウンターにやってきた。

そして、その一般の方は、僕の手元からでてきた申請書のなかから、「性別」の項目をみてこう言った。

「まだ、『(男でも女でも)どちらでもない』はないんやね」

けっして怒っているふうでも、不満そうなようすでもない。きっと彼なりの世間を風刺した皮肉でもあり、ただのジョークだったのだろう。僕はその場では、「そうですね。『まだ』ないんですよ〜」などとごまかしながらも苦笑した。そして、すこし複雑なきもちになった。

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話はかわるが。

僕は、いまの彼女といつか結婚する日がきたときに、「彼女の」苗字になりたいとかんがえている。つまりは、婿入りだ。もちろん、彼女本人とは何度もそういう話をしているし、おたがいの両親も僕のきもちは知っている。

理由を話すと長くなるが、シンプルにいうと、ずっとじぶんの本名に抵抗?コンプレックス?があるからだ。いまこれを読んでくれた方のなかにも、もしかしたら「そんな理由で?」とおもわれた方がいるかもしれない。おそらく、僕の両親もそうおもっている。

「なんでよ。結婚したら男のなまえになるのは当たり前でしょ!」

僕の両親は、そう平然と声をあらげるような古い人間たちなので、「選びたいのに選べない」人のきもちはきっとわからない。だからこそ、ちゃんと話して納得してもらおうとおもっている。

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ただ、歴史をみていると、そんな現代でも進化したなぁとかんじてしまう。

江戸時代までは、きほんてきに「職業選択の自由」がなかったために、農民の子にうまれたら一生農民、武士の子にうまれたらどんなに非力で病弱でも武士になる。現代の僕たちからすると、もっと適任者がいるだろうということは常識としてわかる。

だから、僕たちの「選びたい」が歴史をかえた。

逆に言えば、僕たちがこうしたい、こうなりたいと声をあげなければ周囲は何もかわらない。

「好きなしごとがしたい!」
「名前をじゆうに選びたい!」
「すきな性別(男・女)として生きていきたい!」

もっと我が儘わがままになってもいい気がする。

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夫婦別姓であるために事実婚をえらんだ夫婦が、子どものために籍を入れるか悩んでいるという話を聞いた。

いつかは、「名前に不満があるなら、すきなときにすきに変えたらいいやん?」というような「選べる」世の中がくるのだろうか。

もっと手軽に「性転換手術」ができるぐらい医療技術がすすんだとしたなら、男?女?そういう括りもむかしはあったな、なんていう世の中がくるのかもしれない。

カオスだなとかんじるのは、いま現在を必死に生きている証拠だということにしておこう。

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長屋 正隆
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