noteが、僕の人生に「初めて」をくれた
mikoさんのこの記事の話をしたい。
タイトルを読むと、「人に読んでもらう文章を書くのって、いい習慣だよなぁ」。
僕・みんな「た、たしかにぃ。」
おもわずのどがうなる。まだ書くことに自信がない人や、自分の書いていることに意味なんてあるの?、そう普段から感じている人にこそこのタイトルは刺さる気がする。僕もズドンと撃ち抜かれた。
スキをもらいたい、フォローをされたい、そう声高々に叫ぶことは御法度な雰囲気すらある。本音ではそう言いたい。でも僕もどこかでそれを言うことにいやらしい感じをぬぐえずにいた。
なんでかっていうと、ことnoteにおいては自分の好きなことを書いていきたい、という風習があるようにおもうから。
でもそればかりではないはず。
せっかく書くんだから読まれなければ意味がない。スキをされなければモチベーションをたもてない。
まえにどこかで「文章を書くとはコミュニケーションとおなじだ」という言葉を読んだか聞いたかした。書くだけではあまりに一方的。読み手がいるからその文章には価値がつく。文章を書くとは、書き手と読み手との対話なのだという。
これも僕のこころにしっくりときた。
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それでね。
ふと子どものときのことをおもいだした。
僕が中学生のとき、担任の先生と交換日記のようなものをやらされていた。毎日ノート1ページ分ぐらいを書いて翌朝先生にわたす。そうすると、帰るころには赤ペンでコメントがつけられて返ってきた。
(いま考えると先生の労力すごい)
僕は当時から文章を書くことが得意だったわけではないから、国語の成績どころかこういう日記のようなものを書くのもきらいなほうだった。そもそも僕が書いた文章で人からあまり褒められた記憶がない。
こまったときには文章ではなく絵を描いてごまかしていた。
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なんていうか、文章って自分を出しにくい。
「僕は〜」「しかし〜」、「〜である。」「〜と思う。」。
一見するとみんなおなじような体裁に見えるし、理解するのに頭をつかう。読むのにそうなんだから書くのはもっとしんどい。
でも、じつは僕みたいな人って案外おおいような気もする。
だからこそ、これから書き手になりたい人からすると、noteが人生で初めて「読む人のツボをおす文章を書く力」を意識する体験になるじゃないかと。
大人になってから、とくに年齢が上がれば上がるほど、否定されたり怒られる回数が減っていくし、一度立ち止まってしっかりと読んでもらえる機会も減っていくような気がする。
僕はnoteがあるからここまで書けるようになったし、自分が書く文章をすきになった。
人の役に立つ文章を書くことも大切だけど、まわりまわって結局は僕自身がうれしくも楽しくもなるんだなぁと実感している。